ベトナム戦争を忘れてはならない

 ベトナムに来てから3日目、今日は4月27日になる。この日は、11時から市内観光にでかける予定となって いた。出発時刻が遅いの は、夕方のシェムリアップへのフライトの時間に合わせるためであったが、時間 がもったいないので、11時までにホーチミン美術博物館まで行ってくることにした。タクシーを使えば、ホテルからは5分もかからない距離だ。

戦争の悲惨さに触れることができたホーチミン美術館

 ホーチミン美術博物館は、3階建 ての古い建物で、各 階には絵画や彫刻、メコンデルタから出土された古代の土器などが飾られていた。その日は、1階にベトナム戦争当時の諸外国の反戦ポスターの数々が展示され ていた。4月25日から1か月の特別展示だそうで、恥ずかしい話だが、もらったパンフレットを見て4月30日がベトナム戦争の終戦記念日だということをは じめて知ったのだった。

  ベトナム戦争が泥沼化していった当時、オーストラリア、ロシア、スウェーデン、フランス、そして、戦争の当事国アメリカの画家たちが、悲惨な戦争の中止を 人々に訴えたポスターが、所狭しと壁に掲げられていた。
  常設の絵画も、ベトナム戦争を扱ったものが多く、銃を持った兵士や、勇ましい兵隊たちを歓迎する村人たちの姿が描かれたものなど、さまざまな方法で戦争の 記録を残していた。若くして戦争で命を落とした画家の戦地でのスケッチなどは、かつてたずねたことのある長野の「無言館」を思い起こした。

  まだ早い時間だったが、美術館には、多くの欧米人も訪れており、興味深くポスターや絵画をながめていたのが印象的だった。だれもが、戦争を二度と繰り返し てはいけないという気持ちを強くしたに違いない。
  やはりベトナムに来た以上、戦争を少しでも知って帰るべきだと思っていた。その意味で、寸暇を惜しんでホーチミン美術博物館まででかけ、ベトナム戦争の悲 惨さに触れることができて良かった。

  11時からの市内観光は、シクロの体験乗車から始まった。シクロとは、 自転車の前に人を乗せて走る人力タクシーのことだが、現在は、観光用になっていて地元の人は乗らないらしい。1台に1人ずつが乗車し、15分ほど近くをめ ぐる。その間、後ろの運転手が片言の日本語でいろいろと説明してくれる。降り際に、チップ、チップとうるさくせっつかされたが、ホワンさんからは、チップ は必要ないと聞いていたので、サンキューと一言だけ言って図々しく降りた。ただ、ホワンさんが運転手たちにいくら払ったのか、正式の乗車賃は不明である。

  その後、ベンタイン市場を訪ねる。約1万㎡の敷地に2千をこえる店 がひしめいている。衣食住、ここにくれば何でもそろう市内最大のマーケットだ。日曜日とあって、人々でごった返していた。畳にすれば3畳ほどもない狭い店 なのに、どの店も2、3人の店員がいて、仕事もせず、おたがいにおしゃべりしたり、ケータイを見たり、店先に堂々と座って食事をしたりしていていた。店員 の女性たちは、近寄っていくと「おにいさん」と日本語で話しかけてくる。

  品数と店舗が多いだけに、何を買えばいいのか迷ってしまうが、妻は土産物をいくつか買い求めて市場を出た。すでに12時をとっくに過ぎており、昼食のレス トランにむかう。
  「NAM・AN」というラストランでは、日本の焼き鳥そっくりの串焼きの豚、ベトナム風のお好み焼き、チャーハンなどが出てくる。「ぜんざい」と言って出 てきたデザートは、確かに甘いが小豆の味とは似ても似つかないものだった。最後に、ベトナムコーヒーをいただく。カップの底に練乳がたまっていて、かき混 ぜるとあまーいミルクコーヒーになった。

ベトナム戦争の歴史を子どもたちに語り継ぐ統一会堂

  午後からは、まず統一会堂を訪ねる。旧南ベト ナム傀儡政権の大統領府だ。建物自体は、フランスの植民地時代につくられた歴史あるもので、国の建築文化財に認定されている。1975年4月30日、サイ ゴン陥落によってベトナム戦争が終わった。その日、統一会堂に「無血入場」を果たした解放軍の戦車が、ひっそりと中庭に飾られていた。統一会堂は、ベトナ ム戦争終結を象徴する 場所でもある。いまは観光名所となっていて、入口には何台もの大型バスが停まっていた。

  かつての南ベトナム政府の中枢は、いたるところに漆による装飾が施されるなど、贅が尽くされていた。各国の来賓をもてなしたきらびやかな応接室などととも に、麻雀台が据えられた娯楽室、100人は入りそうな映画館まであった。
  しかし、その一方、地下防空壕にはベトナム戦争当時の作戦会議室や、無線 室、ラジオ放送室まであり、非常事態に備えられていた。人がようやくすれ違えるほどの地下の狭い廊下は、たくさんの観光客が肩をぶつけ合うようにして行き 来していた。

  あさってが終戦記念日とあってか、地元の小学校の子どもたちが、団体で統一会堂を訪れていた。学校の社会見学かもしれない。先生が、一生懸命に説明してい る。ベトナム戦争終結から、すでに30年以上が経ち、戦争を知らない世代も増えている。アメリカによって平和な生活を奪われたベトナム戦争の悲惨さを、子 どもたちに語り継いでいきたいというのが、この国の人たちの共通した想いなのかもしれない。

 ホワンさんは、この統一会堂も、かつてフランスに占領され、その後、アメリカに占領されてきたが、今はベトナムは独立して、こうして多く の外国人をむかえていると誇らしく語った。私はなにげなく「日本は、いまでもすべてをアメリカに占領されているよ」と言ったが、ホワンさんには理解できな かったかもしれない。

  統一会堂から、ホーチミンの中央郵便局に移動する。郵便局の隣には、聖母マリア教会がある。19世紀末に建てられたカトリックの教会は、外見はパリのノー トルダム寺院に似ている。東洋のパリ、ホーチミンを代表する建物だ。こ の日は、日曜日のミサが開かれており、残念ながら中に入ることはできなかった。
  郵便局の内部は吹き抜けの高いアーチ型の天井で、フレンチ・コロニアル様式と言われるそうだ。正面には、ホーチミンの大きな肖像画がかけてある。ここも、 大型バスで乗り付けた観光客でにぎわっていた。気のせいか、今日は、欧米人の団体が目立つ。

ベトナム「ZAKKA」は、もう「KEKKO(結構)」

 その後、フライトまではまだ時間があるとい うので、旅行社契約の免税店で休憩する。もとより何も買う気はないが、女性の店員がやたらとまとわりつき、しつこく声をかけてくるのにはいたく閉口した。 店を出て、さらに、ベトナム国内での最後のショッピングのため、「国営デパート」に入る。デパートとは言っても、内部は、小さなみやげ物屋の集合体と、日 用雑貨や食料品を売るスーパーマーケットとが同居しているようなところだ。ただ、1階にブランドの化粧品売り場があるのは、日本のデパートと変わらない。

 しかし、わずか2日間でも、あちこちの店を見て回ってきたが、どこに行っても、同じようなサンダルや置物などのいわゆる「アジア雑貨」が山のように売ら れ、看板にも「ZAKKA」と書かれている。その「ZAKKA」を喜んで買い求める日本人女性にとっては、ベトナムはたまらない魅力があるのだろうが、わ れらおっさんには無縁だ。第一、ドンコイ通りであろうが、ベンダイン市場であろうが、はたまた、「国営デパート」であろうが、売っている雑貨は、私には まったく同じものに見えるのである。

 日本人が買い物好きだからこんなツアーコースになっているのはしかたない が、もう少しベトナムという国を深く知る機会が欲しかった。それでなければ、戦争の悲劇を子どもたちに伝えようと努力しているベトナムの人たちに申し訳な いではないか。
  市内観光を終え、私たちは、タン・ソン・ニャット国際空港へむかった。空港ロビーの入口でガイドのホワンさんにお礼をのべ、別れのあいさつを交わして中に 入った。ガイドの空港入場は禁止されている。
  チェックイン、出国の手続きなどはことのほかすんなりとすすんだ。ベトナム航空の18時35分発シェムリアップ行き飛行機の出発には、まだかなり時間が あったので、待合室でひたすらに出発を待った。

  そろそろ搭乗時間となったころ、突然、飛行機を待つ他の人たちがいっせいに移動をはじめた。私たちには何のことかわからず、とまどっていたら、乗客の中の 一人の外国人の女性が、たったいま、出発ゲート変更のアナウンスがあったことを教えてくれた。
  その女性とは、到着地のシェムリアップ空港の荷物受け取り所で顔を合わせ、スーツケースがでてくるまでの短い会話で、彼女がオーストラリアから来ているこ とを知った。シェムリアップに1週間ほど滞在し、アンコールワット見て回るそうだ。私たちが2日ほどで日本に帰ると伝えたら、「too short」といって気の毒そうな顔をしていた。

  シェムリアップ空港までのベトナム航空の飛行機は、3人掛けの席が 両側にならぶ中型の飛行機だったが、中国人の10人ほどの団体と欧米人が何人かいたくらいで、座席は半分ほども埋まっていなかった。離陸してシートベルト のサインが消えると、男女の乗務員がハンバーガーと水、お菓子が詰められたボックスを、各座席に放り投げるようにして大急ぎで配って歩いた。シェムリアッ プまでの所要時間は1時間ほどなので、ゆっくりと機内食のサービスをしている余裕はないのだろう。
 わたしたちも、うとうとする暇もなく、シェムリアップ空港の灯りが見えてきた。いよいよカンボジア入国である。 

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