隣の部屋まで聞こえそうな目覚まし時計のけたたましいアラーム音に飛び起きた。
時間は4時半。アンコールワットに来て3日目、今日は4月29日になる。
アンコールワットの夜明けの情景を見学することになっていて、5時20分に出かける予定だ。ホテルのロビーに出てみると、まだうす暗い中 を、すでに何組かの観光客が待っていた。みんな、「夜明けのアンコールワット」を見に行く人たちだ。
朝日にかがやく遺跡が見えるはずが・・・
次々とガイドがむかえに来て客たちをアンコールワットへ と連れて行ったが、しかし、サボットさんは、約束の時間を過ぎてもいっこうに現れる気配がなかった。心配になった妻は、現地の日本人スタッフに電話を入れ て事情を伝えた。その電話が終わったころ、ようやくサボットさんが飛んできた。ベージュのガイドの制服ではなく、私服のシャツをだらしなく着て、髪はぼさ ぼさになっている。予想したとおり、寝坊したのである。
ホテルを出るときは、すでにあたりが明るくなっていて、朝日が出る時間に間に合うのかどうか私たちは気をもんだが、サボットさんは、遅刻したことに恐縮し て何度も謝りながらも、まだ日の出までには十分に時間があるので大丈夫だとなだめた。
ところが、アンコールワットに着いたときには、あいにく小雨が降り出しており、寺院の中央塔の方向の空はどんよりと曇っていて、「夜明けの情景」どころで はなかった。
もっとも美しく見られるという池の前には、すでに大勢の観光客が待機していた。この天気では、朝日が見れられる可能性はほとんどないが、それでもみんな固 唾をのんで寺院の方向を見守っていた。
アメリカから来たと思われる年配者の団体が、私たちの近くで椅子をならべて座っていた。10人ほどの団体は、コーヒーを飲みながらにぎやかにおしゃべりし たり、写真を撮り合うなどして、朝日とは無関係に盛り上がっていた。コーヒーは、毎朝おこなわれるこの行事を待ち構えているみやげ物屋が売っているもの で、椅子はそのサービスらしい。アメリカ人たちは物売りの子どもたちからもガイドブックを気前よく購入し、時ならぬ高収入に子どもたちもうれしそうにして いた。
空が晴れる気配はまったくなく、日の出の時間をとうに過ぎても太陽がいまどこにあるのさえわからなかった。昨日の「夕日」、今日の「朝日」と、ツキがな かったのだとあきらめるしかない。私たちは、おそらくもう二度と来ることもないアンコールワットの塔に未練を残しながらも引き返してきた。
その後、ホテルに帰って朝食を食べる。レストランには、新たにイタリア人の団体が来ていた。昨夜、到着したようだ。料理は、昨日とほとんど変わらなかった が、イタリア人たちはみんなオムレツを好むらしく、オムレツのコーナーには長い行列ができていて、2人のコックが忙しそうにオムレツを焼いていた。みんな 待ちながらおしゃべりしたり、中には、パンを立ち食いしている人もいて、待つことまでも楽しみにしてしまうラテン系の明るさが充満していた。
「クメールの微笑み」に手を合わせたアンコールトム
8時半にあらためてホ テルを出発する。今日の夜の便で帰国することになっているが、ホテルの部屋は18時まで使えるので、スーツケースなどはそのままでもかまわない。
午前中は、アンコールワットと並んで人気のあるアンコール・トムを見学する。アンコール・トムは、南大門から入り、バイヨンやピミアナカスという寺院など から成り立っている。3キロメートル四方の広大な敷地にさまざまな遺跡がひろがっている。
はじめに、南大門をくぐる。門の上には 巨大な四面の観世音菩薩がかたどられてい る。門前には、「乳海攪拌」を描いた綱引きの石象が、橋の欄干のように両側に並んでいた。無残にも神々と阿修羅の象はいたるところで壊れ、ところどころ補 修が施されていた。
南大門を入り、高木が茂る密林を切り開いて舗装された道を5分ほど歩くと、12世紀末に建造されたバイヨンの寺院に突き当たる。アンコールワットを 小さくしたような寺院で、第二回廊まである。行ったときは、日本のプロジェクトチームが補修工事をしており、日本から運んできた神戸製鋼の大型クレーン車 が音を立てて石のかたまりをつり上げていた。
石壁に彫刻が施されているのもアンコールワットと同じだ が、ここのレリーフは「天国と地獄」などのようなおどろおどろした雰囲気はなく、楽しそうにアプサラダンスを踊る女性や、住民たちの日々の暮らしが描かれており、当時の庶民の豊か な生活を知ることができる。
第二回廊へとのぼっていくと、南大門と同じように巨大な観音様の顔をかたどった石像が見えてくる。石像はいくつかあって、もっとも有名 なのが、「クメールの微笑み」と呼ばれる四面の観世音菩薩像だ。象の前に立って、にっこりとほほえんでいる観音様にむかえられると、思わす手を合わせてし まう。
あちこちを見学していると、アプサラダンスの衣装に身をまとった男女がどこからともなく現れた。どこかの団体の観光客が記念撮影のために連れてきたらし く、みんな、本物のダンサーではないようだ。女性の観光客を中央に立たせて写真を撮っていたが、女性ダンサーの衣装が身体に合わずだらしなく、昨夜見たア プサラダンスの優雅さは感じられなかった。
バイヨン寺院を抜けるとパプーオンという小さな寺院を訪ねる。11世紀中頃に建造さ れたそうで、パプーオンとは「隠し子」という意味らしい。補修工事がつづく急な石段をのぼってもとくに見るものはなく、すぐに引き返した。
次にアンコール・トムの中央に位置するピミアナカス寺院に行く。寺院と言っても、崩れかけたピラミッドのような建造物があるだけで、石段をあがれば上まで 行けるようにはなってはいたが、私たちは素通りして次にすすんだ。
「オールドマーケット」でおみやげショッピング
その後、見学コース は、「象のテラス」「ラ イ王のテラス」とつづき、全部回ったところにノイさんの運転する車が待ってくれていて、車で南大門まで帰ってきた。これだけの遺跡を見て回るのにたっぷり 2時間かかった。
昼食までにはまだかなり時間があるので、シェムリアップの市内に行き、地元の人たちが利用する「オールドマーケット」で買い物をすることにした。ここに は、食品や衣類、雑貨など日用品はなんでもそろっている。もちろん、土産物も売っている。
観光客には、初めはいいかげんな値段を言うらし く、交渉するとすぐに半額くらいに下がってしまう。マーケットの中はうす暗く、近づきがたい怪しげな雰囲気だったが、電気が来ていないのでしかたがなかっ た。どの店も、電灯のない天井に小さな明かり取りの窓をつけるなどして工夫していた。
30分ほどぶらぶらとマーケットを歩いたあと、昼食のレストランへむかう。料理は、八宝菜やチンゲンサイの炒め物のような中国風のものが中心で、どれもお いしかったが、昨日のような地元のカレーが食べたい気もした。
食事をしていると、日本人の女性がテーブルに近づいて来て、私たちに話しかけてきた。朝、電話で話した旅行社のスタッフだった。彼女は、朝の遅刻の謝罪をするため に来たようだった。私は、済んだ話であり、寝坊したサボットさん一人を責める気持ちもまったくないことを彼女に伝えた。そのことを聞くと、彼女はあらため てお詫びをのべて帰って行った。
レストランを出て、アンコール遺跡へと引き返した。天候は完全に回復し、カンカン照 りになっていた。とはいえ、この天気ならば今日もおそらく夕立が降るだろう。幸いなことに今日は「昼寝タイム」がなく、夕立が降りそうな時間にはすべての 見学を終えている。
市街地から少しはずれた道路の脇では、大型のペットボトルに入った黄色い液体が売られていた。ジュースではなく、ガソリンをペットボトルで売っているそう だ。中身が見えるので、みんな安心して買っていくらしい。サボットさんに聞くと、やはりこちらでもガソリンの値上がりは深刻だと言った。
バイクにリヤカーをくっつけたようなトクトクタクシーを次々と追い越していく。タクシーの後ろには、にぎやかな看板が取り付けられ、運転手には宣伝収入が あるらしい。欧米人が結構トクトクタクシーを利用しており、ツアーに入らない気ままな観光には人気があるように思えた。みんな、ホテルの前でチャーターし て、丸一日あちこちを見学して回るのだろう。
働き者?のカンボジアの子どもたち
午後からは、東メポ ン、タ・ソム、ニャック・ポアン 、プリヤ ・カーンと4つの小さな遺跡を精力的に巡った。
学校は午前と午後の2部制で、どの遺跡でも、子どもたちがパンフレットやおみやげを売り歩いていた。中には、おみやげを手にしながら、遊びほうけている子ども たちもいて、思わず、「こらぁ、サボってないで商売せんか!」と言ってやりたくなった。そんな姿を見ると、やはり子どもは子どもなのだと思ってしまう。
妻は、ニャック・ポアンの遺跡に行ったとき、1ドルでいいからと言って熱心に土産物を売って歩いていた5歳くらいの女の子から、手作りのブレスレットを 買ってやった。そうすると、友達らしい同じ年かさの女の子が寄ってきて、「あの子のを買っ たんだから、わたしのも買って」と言いたそうにどこまでも妻についてきた。
妻は、その根気に負けて、同じようなブレスレットを同じ値段で買ってやった。女の子は喜んで近くにいたお母さんに何か叫んだ。サボットさんに聞くと、「やったー、買っ てもらったよ」と言っていたそうだ。よほどうれしかったのだろう。ひょっとして、今日、はじめての客だったのかもしれない。1ドルは、子どもにとっては相 当な収入ではないだろうか。
すべての観光を終えて、15時にホテルに戻ってきた。飛行機は18時40分のフライトなので、シェムリアップ空港には16時過ぎに行けばよい。荷物をあら ためて整理して、一息ついてホテルの部屋をあとにした。
ずいぶんいろいろな遺跡を回ったような気がするが、1000を超えるといわれる石造建築の100分の1ほどでしかない。遺跡の中には、風の中で朽ち果て、 密林に放置されて、建築当時の面影をとどめていないものもあるはずだ。ポルポトが数百万人もの人民を虐殺した激しい内戦の中では、遺跡保護どころの話で はなかったのだろう。サボットさんも、「地獄の時代だった」と言った。
アンコールワット遺跡群がユネスコの世界遺産となったのは1992年の ことだ。世界から専門家が集められ、遺跡の修復工事が懸命に続いている。おそらくこれから何十年という単位で続いていくのだろう。そんな遺跡が、カンボジ アの平和の象徴であって欲しい、子どもたちの未来に向けてきらきらと輝く夢であって欲しいと願わずにはいられなかった。
シェムリアップ空港への道路の両脇には、たくさんの民家が建っていた。広大な畑もひろがっていた。電気が通っていないこの地域では、2日前の夜に通ったと きには、あたりはまっ暗でまったく人気を感じなかったのだが、たくさんの人たちが生活していることを知った。
駆け足の東南アジアの旅だったが、ベトナムもアンコールの遺跡も堪能することができた。旅先では、これらの国々で生活する人々の熱気、そして、ゆったりと して少々のことは気にしないおおらかさや明るさも伝わってきた。2つの国とも戦争で失ったものは大きかったが、いっそうの発展にむけてがんばっている人々 の姿に、将来を大いに期待したいと思いながら帰途についた。(完)