カンボジアの子らの夢よ叶え

 隣の部屋まで聞こえそうな目覚まし時計のけたたましいアラーム音に飛び起きた。
  時間は4時半。アンコールワットに来て3日目、今日は4月29日になる。
 アンコールワットの夜明けの情景を見学することになっていて、5時20分に出かける予定だ。ホテルのロビーに出てみると、まだうす暗い中 を、すでに何組かの観光客が待っていた。みんな、「夜明けのアンコールワット」を見に行く人たちだ。

朝日にかがやく遺跡が見えるはずが・・・

  次々とガイドがむかえに来て客たちをアンコールワットへ と連れて行ったが、しかし、サボットさんは、約束の時間を過ぎてもいっこうに現れる気配がなかった。心配になった妻は、現地の日本人スタッフに電話を入れ て事情を伝えた。その電話が終わったころ、ようやくサボットさんが飛んできた。ベージュのガイドの制服ではなく、私服のシャツをだらしなく着て、髪はぼさ ぼさになっている。予想したとおり、寝坊したのである。

  ホテルを出るときは、すでにあたりが明るくなっていて、朝日が出る時間に間に合うのかどうか私たちは気をもんだが、サボットさんは、遅刻したことに恐縮し て何度も謝りながらも、まだ日の出までには十分に時間があるので大丈夫だとなだめた。

池に映るアンコールワット ところが、アンコールワットに着いたときには、あいにく小雨が降り出しており、寺院の中央塔の方向の空はどんよりと曇っていて、「夜明けの情景」どころで はなかった。
  もっとも美しく見られるという池の前には、すでに大勢の観光客が待機していた。この天気では、朝日が見れられる可能性はほとんどないが、それでもみんな固 唾をのんで寺院の方向を見守っていた。

  アメリカから来たと思われる年配者の団体が、私たちの近くで椅子をならべて座っていた。10人ほどの団体は、コーヒーを飲みながらにぎやかにおしゃべりし たり、写真を撮り合うなどして、朝日とは無関係に盛り上がっていた。コーヒーは、毎朝おこなわれるこの行事を待ち構えているみやげ物屋が売っているもの で、椅子はそのサービスらしい。アメリカ人たちは物売りの子どもたちからもガイドブックを気前よく購入し、時ならぬ高収入に子どもたちもうれしそうにして いた。

アンコール遺跡の石像  空が晴れる気配はまったくなく、日の出の時間をとうに過ぎても太陽がいまどこにあるのさえわからなかった。昨日の「夕日」、今日の「朝日」と、ツキがな かったのだとあきらめるしかない。私たちは、おそらくもう二度と来ることもないアンコールワットの塔に未練を残しながらも引き返してきた。

  その後、ホテルに帰って朝食を食べる。レストランには、新たにイタリア人の団体が来ていた。昨夜、到着したようだ。料理は、昨日とほとんど変わらなかった が、イタリア人たちはみんなオムレツを好むらしく、オムレツのコーナーには長い行列ができていて、2人のコックが忙しそうにオムレツを焼いていた。みんな 待ちながらおしゃべりしたり、中には、パンを立ち食いしている人もいて、待つことまでも楽しみにしてしまうラテン系の明るさが充満していた。

「クメールの微笑み」に手を合わせたアンコールトム

海乳撹拌の立体版 8時半にあらためてホ テルを出発する。今日の夜の便で帰国することになっているが、ホテルの部屋は18時まで使えるので、スーツケースなどはそのままでもかまわない。
  午前中は、アンコールワットと並んで人気のあるアンコール・トムを見学する。アンコール・トムは、南大門から入り、バイヨンやピミアナカスという寺院など から成り立っている。3キロメートル四方の広大な敷地にさまざまな遺跡がひろがっている。

  はじめに、南大門をくぐる。門の上には 巨大な四面の観世音菩薩がかたどられてい る。門前には、「乳海攪拌」を描いた綱引きの石象が、橋の欄干のように両側に並んでいた。無残にも神々と阿修羅の象はいたるところで壊れ、ところどころ補 修が施されていた。

アンコールトムの遺跡 南大門を入り、高木が茂る密林を切り開いて舗装された道を5分ほど歩くと、12世紀末に建造されたバイヨンの寺院に突き当たる。アンコールワットを 小さくしたような寺院で、第二回廊まである。行ったときは、日本のプロジェクトチームが補修工事をしており、日本から運んできた神戸製鋼の大型クレーン車 が音を立てて石のかたまりをつり上げていた。

アプサラダンスを踊る女性  石壁に彫刻が施されているのもアンコールワットと同じだ が、ここのレリーフは「天国と地獄」などのようなおどろおどろした雰囲気はなく、楽しそうにアプサラダンスを踊る女性や、住民たちの日々の暮らしが描かれており、当時の庶民の豊か な生活を知ることができる。

巨大な観音様の顔  第二回廊へとのぼっていくと、南大門と同じように巨大な観音様の顔をかたどった石像が見えてくる。石像はいくつかあって、もっとも有名 なのが、「クメールの微笑み」と呼ばれる四面の観世音菩薩像だ。象の前に立って、にっこりとほほえんでいる観音様にむかえられると、思わす手を合わせてし まう。 

観光用の偽物ダンサーたち  あちこちを見学していると、アプサラダンスの衣装に身をまとった男女がどこからともなく現れた。どこかの団体の観光客が記念撮影のために連れてきたらし く、みんな、本物のダンサーではないようだ。女性の観光客を中央に立たせて写真を撮っていたが、女性ダンサーの衣装が身体に合わずだらしなく、昨夜見たア プサラダンスの優雅さは感じられなかった。

パプーオンという小さな寺院  バイヨン寺院を抜けるとパプーオンという小さな寺院を訪ねる。11世紀中頃に建造さ れたそうで、パプーオンとは「隠し子」という意味らしい。補修工事がつづく急な石段をのぼってもとくに見るものはなく、すぐに引き返した。

  次にアンコール・トムの中央に位置するピミアナカス寺院に行く。寺院と言っても、崩れかけたピラミッドのような建造物があるだけで、石段をあがれば上まで 行けるようにはなってはいたが、私たちは素通りして次にすすんだ。

「オールドマーケット」でおみやげショッピング

修復中の遺跡 その後、見学コース は、「象のテラス」「ラ  イ王のテラス」とつづき、全部回ったところにノイさんの運転する車が待ってくれていて、車で南大門まで帰ってきた。これだけの遺跡を見て回るのにたっぷり 2時間かかった。

  昼食までにはまだかなり時間があるので、シェムリアップの市内に行き、地元の人たちが利用する「オールドマーケット」で買い物をすることにした。ここに は、食品や衣類、雑貨など日用品はなんでもそろっている。もちろん、土産物も売っている。

遺跡 観光客には、初めはいいかげんな値段を言うらし く、交渉するとすぐに半額くらいに下がってしまう。マーケットの中はうす暗く、近づきがたい怪しげな雰囲気だったが、電気が来ていないのでしかたがなかっ た。どの店も、電灯のない天井に小さな明かり取りの窓をつけるなどして工夫していた。

  30分ほどぶらぶらとマーケットを歩いたあと、昼食のレストランへむかう。料理は、八宝菜やチンゲンサイの炒め物のような中国風のものが中心で、どれもお いしかったが、昨日のような地元のカレーが食べたい気もした。

シェムリアップの市場  食事をしていると、日本人の女性がテーブルに近づいて来て、私たちに話しかけてきた。朝、電話で話した旅行社のスタッフだった。彼女は、朝の遅刻の謝罪をするため に来たようだった。私は、済んだ話であり、寝坊したサボットさん一人を責める気持ちもまったくないことを彼女に伝えた。そのことを聞くと、彼女はあらため てお詫びをのべて帰って行った。

  レストランを出て、アンコール遺跡へと引き返した。天候は完全に回復し、カンカン照 りになっていた。とはいえ、この天気ならば今日もおそらく夕立が降るだろう。幸いなことに今日は「昼寝タイム」がなく、夕立が降りそうな時間にはすべての 見学を終えている。

  市街地から少しはずれた道路の脇では、大型のペットボトルに入った黄色い液体が売られていた。ジュースではなく、ガソリンをペットボトルで売っているそう だ。中身が見えるので、みんな安心して買っていくらしい。サボットさんに聞くと、やはりこちらでもガソリンの値上がりは深刻だと言った。

崩れかけた遺跡 バイクにリヤカーをくっつけたようなトクトクタクシーを次々と追い越していく。タクシーの後ろには、にぎやかな看板が取り付けられ、運転手には宣伝収入が あるらしい。欧米人が結構トクトクタクシーを利用しており、ツアーに入らない気ままな観光には人気があるように思えた。みんな、ホテルの前でチャーターし て、丸一日あちこちを見学して回るのだろう。

働き者?のカンボジアの子どもたち

暑さの中での遺跡巡り 午後からは、東メポ ン、タ・ソム、ニャック・ポアン 、プリヤ ・カーンと4つの小さな遺跡を精力的に巡った。
  学校は午前と午後の2部制で、どの遺跡でも、子どもたちがパンフレットやおみやげを売り歩いていた。中には、おみやげを手にしながら、遊びほうけている子ども たちもいて、思わず、「こらぁ、サボってないで商売せんか!」と言ってやりたくなった。そんな姿を見ると、やはり子どもは子どもなのだと思ってしまう。

小さな遺跡  妻は、ニャック・ポアンの遺跡に行ったとき、1ドルでいいからと言って熱心に土産物を売って歩いていた5歳くらいの女の子から、手作りのブレスレットを 買ってやった。そうすると、友達らしい同じ年かさの女の子が寄ってきて、「あの子のを買っ たんだから、わたしのも買って」と言いたそうにどこまでも妻についてきた。

商売道具を手にして走り回る  妻は、その根気に負けて、同じようなブレスレットを同じ値段で買ってやった。女の子は喜んで近くにいたお母さんに何か叫んだ。サボットさんに聞くと、「やったー、買っ てもらったよ」と言っていたそうだ。よほどうれしかったのだろう。ひょっとして、今日、はじめての客だったのかもしれない。1ドルは、子どもにとっては相 当な収入ではないだろうか。

石像群  すべての観光を終えて、15時にホテルに戻ってきた。飛行機は18時40分のフライトなので、シェムリアップ空港には16時過ぎに行けばよい。荷物をあら ためて整理して、一息ついてホテルの部屋をあとにした。

  ずいぶんいろいろな遺跡を回ったような気がするが、1000を超えるといわれる石造建築の100分の1ほどでしかない。遺跡の中には、風の中で朽ち果て、 密林に放置されて、建築当時の面影をとどめていないものもあるはずだ。ポルポトが数百万人もの人民を虐殺した激しい内戦の中では、遺跡保護どころの話で はなかったのだろう。サボットさんも、「地獄の時代だった」と言った。

手を合わせて祈る神様 アンコールワット遺跡群がユネスコの世界遺産となったのは1992年の ことだ。世界から専門家が集められ、遺跡の修復工事が懸命に続いている。おそらくこれから何十年という単位で続いていくのだろう。そんな遺跡が、カンボジ アの平和の象徴であって欲しい、子どもたちの未来に向けてきらきらと輝く夢であって欲しいと願わずにはいられなかった。

ガジュマルの木に呑み込まれた遺跡  シェムリアップ空港への道路の両脇には、たくさんの民家が建っていた。広大な畑もひろがっていた。電気が通っていないこの地域では、2日前の夜に通ったと きには、あたりはまっ暗でまったく人気を感じなかったのだが、たくさんの人たちが生活していることを知った。 

元気なアンコールワットの子どもたち  駆け足の東南アジアの旅だったが、ベトナムもアンコールの遺跡も堪能することができた。旅先では、これらの国々で生活する人々の熱気、そして、ゆったりと して少々のことは気にしないおおらかさや明るさも伝わってきた。2つの国とも戦争で失ったものは大きかったが、いっそうの発展にむけてがんばっている人々 の姿に、将来を大いに期待したいと思いながら帰途についた。(完)

雨にたたられたアンコールワット見学

アンコールワットの前で 午後の「昼寝タイム」を利用して、妻はマッサージに出かけていった。私はその間、やることもなくホテルでゴロゴロしていると、空がゴロゴロと鳴りだし、突 然、大粒の 雨が降ってきた。

  カンカン照りだった天気が、昼を過ぎる頃からだんだんと曇りだしていた。昨日も夕立があったというので気をもんでいたら、その心配が見事にあたってしまっ たのだった。しかも、これからが今回の旅行のメインのアンコールワット見学なのである。これならば、「昼寝」の時間などとらなければよかったのにと、現 地人に合わせたスケジュールを恨んだりした。 

  土砂降りの雨の中を、サボットさんが車でむかえに来た。夕立だからすぐやみますよと言われたが、私には、気休めにしか聞こえなかった。アンコールワットに 到着すると、車を停め、寺院を囲む堀にかかる西参道を、傘を差しながら渡った。

堀に飛び込む少年たち 参道の真ん中あたりで、パンツ1枚の子どもたちが、激しく降る雨の中を堀にダイビングして遊んでいた。子どもらは、次々と通っていく観光客に、宙返りなど の技を披露していた。人々に自分たちの写真を撮るようにうながしては、堀からあがってきて、観光客に「モデル料」をねだった。雨の中で遊んでいるのかと 思ったら、結局は、子どもたちのビジネスなのである。

「天国と地獄」「乳海攪拌」などの石像の壮大さに感動

アンコールワット見取り図 参道を渡りきり、西 塔 門をくぐると、テレビでは何度も見たこ とがあるあのアンコールワットの塔がそびえていた。塔は全部で5つあるが、真正面からは3つしか見えない。
  西塔門からさらに参道をすすむと、寺院の本堂に入る。右に曲がる第一回廊へと入り、石壁に精巧な彫刻が施されている回廊を、西面南側、南面西側、そして、 南面東側と、サボットさんの説明を聞きながら次々とすすんでいった。

 石壁の彫刻のテーマは、それぞれのパートで違っていて、入ってすぐの西面南側には戦争の シーンが描かれており、馬に引かれた戦車に乗った司令官を先頭に、槍と盾を手にしてふんどしだけを締めた夥しい数の兵士がひしめき合っており、うめき声や 雄叫びが壁の中から聞こえてきそうな迫力が感じられた。

石壁の彫刻  南面西側にも、戦争にむかう行軍の様子が描かれているが、南面東側は、それまでの勇壮さとは一転する。ここのテーマは、「天国と地獄」である。中央に閻魔 大王のような神様がいて、やせこけた大勢の人たちが、次から次へと地獄へ と突き落とされていた。残酷で、おどろおどろしい光景がつづく。

石壁の彫刻  悪いことをすれば地獄に落とされるという、おなじみの教えをレリーフにしたものだが、 鼻輪にひもをつけられて引きずり回される人々の痛そうな姿には、こっちまで思わず顔をゆがめてしまった。
  さて、南面の回廊を渡りきると、左に曲がって東面に入る。ところが、東面南側の半分は、WWF(世界記念物基金)が修復工事の最中で立ち入りが禁止され、 その代わり、回廊の外に実物大の写真が展示されていた。南側の残り半分の修復はこれかららしく、実物が見学できる。 

石壁の彫刻  ここのテーマは、「乳海攪拌」である。はじめて聞く話でもあり、あまりにも壮大な神話なので、サボットさんの説明だけでは、とても理解できるものではな かったが、すごくおおざっぱに言ってしまうと、不老不死を願った神々が、1000年もかけて海をかき混ぜつづけ、ミルクのように泡だった海底からついに不 老不死の薬を手に入れることに成功したという話だ。 

  石壁には、巨大な亀と神様を真ん中にして、両側で神々と阿修羅たちが綱引きをしている場面が描かれ、攪拌された海の中では、たくさんの魚がミキサーにかけ られたようにばらばらにされてしまっている。

海乳撹拌  何百の神と阿修羅が引き合っているのは、綱ではなくて大蛇で、みんなが指先からつま先まで力の限り一生懸命に引っぱりあっているように見えた。壮大なレ リーフからは、 「そーれ!」とか「よいしょ!」とかいう神様たちのかけ声や、海がかき混ぜられる轟音、切り刻まれる魚たちの叫び声までが聞こえてきそうだった。
  しかし、突き詰めれば、不老不死という長寿につながるめでたい伝え話であり、カンボジアの人たちはこの話を好むのか、乳海攪拌の「綱引き像」がシェムリ アップの街中にも見られた。

驚くべき急傾斜の第三回廊の階段、入場禁止に胸なでおろす

へっぴり腰で階段を降りる  「乳海攪拌」のレリーフが終わると、第一回廊 をちょうど半周したことになる。見学コースは、第一回廊からさらに内側の第二回廊へと入る。第二回廊への階段はかなり急傾斜だが、あちこちが崩れかけた石 段の上にしっかりとした木製の階段が補強されていて、危なさは感じなかった。

  第一回廊とは違って、第二回廊には壁面の彫刻などの装飾はいっさいなく、見るべきものも な いので、階段を上りきるとそのままさらに内側の第三回廊へとむかった。第三回廊へは、数十段の急勾配の階段が待っていた。とは言っても、昨年12月からこ の階段の上り下りが禁止され、階段にはひもが張られ、「NO ACCESS」と書かれた札かかけられていた。

現在は入れます 下から見上げるとほとんど垂直に見える石段はところどころが壊れかけており、とても登れそ うにはない。禁止されるまで、みんなよくこんなところを登っていたものだと驚いた。クライミングを趣味にしている妻は悔しがったが、立ち入り禁止になって いて助かったと思ったのは、私だけだっただろうか。

  第三回廊への入場が禁止されたことで、おのずと寺院の真ん中にそびえ立つ中央塔の見学もできなくなった。私たちは、第三回廊の外側を歩いて東面から西面ま で引き返し、十字回廊を通って本堂の外へ出た。

日本人の「落書き」 サボットさんが、十字 回廊には日本人の落書きがあるというので、私 は、日本人がまた恥をさらしてくれたかと思ったが、実は、1632年(寛永9年)に、森本右近太夫がアンコールワットを訪れた際に記したもので、当時の落 書きは、今や貴重な歴史の記録になっている。右近太夫は仏像を4体寄贈したそうで、いったいどうやってアンコールワットまでたどり着いたのか、並々ならぬ 先人の労苦に思いを馳せた。

回廊の中 このころには雨はすっかり上がっており、本堂を出てからも、西塔門にむかう間、少し歩いては本堂の方向を振り返り、何度もカメラのシャッターを切り、アン コールワットの姿をカメラに納めた。
  さすがにアンコール遺跡の象徴だけあって、歩いて回るだけでもたっぷり2時間かかった。とくに回廊の彫刻は見応えがあったが、聞きかじりでもいいからヒン ズー経の神話を勉強しておけば、もっと興味を持って見ることができたかも知れない。

アンコールワット ガイドのサボットさん は、一生懸命、日本語で解説してくれたが、聞き取 れなかったり、理解できなかったり、あるい は、こちらが詳しいことを質問できなかったことなど、やはり、「日本語ガイド」の限界を感じざるをえなかった。

  とは言え、初めてのアンコールワットを十分に堪能できた。明日の早朝、もう一度、朝日のアンコールワットを眺めに、この場所に来ることになっているが、名 残は尽きず、参道を出てからも、何度も塔の方向を振り返った。

雨の中で出会った物乞いの幼子に心を痛める

像で見物 すでに17時をすぎていたが、私たちは、この日の最後の見学として、プノン・バケンという丘の上に建つ寺院を訪ねた。丘の麓まで車で 行くと、頂上までは徒歩、もしくは、ゾウで行くしかなった。ゾウは、登りだけ乗せてくれて、一人15ドルだという。

  私たちは、もちろんひたすら歩いて上った。旅行スケジュールには、「プノン・バケンからの夕刻のアンコール ワット見学」と書いてあった。ところが、丘の頂 上までたどりつき、さらにプノン・バケンの急な階段を冷や汗を垂らしながら登り切り、ようやく「アンコール遺跡の夕刻の情景」が見えるという場所まで到着 したにもかかわらず、「夕刻の情景」どころか、あいにくの雨に煙って、アンコールワット寺院の姿さえ確認できなかった。

 JTBの旅行ガイドには、夕日に照らされて金色に輝く丘の上から見たアンコールワットの写真が出ていて、それに期待して来てみたらさんざんだった。はじめ からこんなもんだと言ってもらえたら、ここまで苦労して上ってこなかったのにと、麓で待っているサボットさんを恨んだりした。

雨も一段落  引き返す途中、路上で物乞いをしている3、4歳の幼女と2人出会った。両手を合わせて蚊の鳴くような小さな声で観光客に恵み乞う幼女は、2人とも、アン コールワットの参道で「モデル料」をねだった子どもたちのような貪欲さも快活さもなく、小さな姿が、ふたたび降り出した小雨に濡れて痛々しかった。
  カンボジアには義務教育がない。お金がなければ、当然、学校にも行けない。学校どころか、明日の暮らしにさえ困る家庭の子どもたちは、こうして物乞いをし て生活していくしかないのかもしれない。
  物乞いをする子に施しを与えてはいけない、子どもは「うま味」を覚えるだけで、結果的にはその子のためにならない。だから、かわいそうだと思ったらそのお 金をユニセフに募金すべきだと言うが、目の前の子どもたちに何とか手をさしのべる方法はないものか。

 そんなことを考えながら下り坂を歩いていると、反対方向 から二十歳を超えたばかりに見える日本人のアベックが上ってきた。男の方が、きつい上りにくたびれ果てた様子で、「かったるいなぁー」とあたりの人たちに も聞こえるような声を出しながらだらしなく歩いていた。これを聞いた私たちのすぐ前を歩いていた若い女性が、日本の男の情けなさにあきれながら、「最後に 急階段の最大の難所が待ち受けているとも知らないなんて、か わいそうな男ねぇ」とつぶやいたことが痛快だった。

  豊かさの中にいる日本の若者の態度に情けなさを感じたのは当然だが、そうした豊かさの一方で、カンボジアをはじめ、勉強もまともな生活もできない子どもた ちが世界には何百万、何千万人といる。そんな子どもたちを助けることのできない無力さには、自分自身が情けない気持ちになったのだった。

アプサラダンス 今日の遺跡観光はこれで無事終了し、その足で、市内のレストランまでむかった。夕食には、カンボジアの宮廷舞踊、アプサラダンスを鑑賞しながらのバイキン グ料理が用意されていた。
  アプサラダンスとは、「天女の舞」という意味だそうで、インド舞踊に似ているようにも見えたが、手の指先を大きく反対側にそらしたり、片足で動きを止めて ポーズを取るなど、とても特徴的な踊りだった。やはり、みんな小さい頃から習っているらしく、指を反り返 させる訓練もあるそうだ。

アプサラダンス カンボジアの歴史と伝統を伝える舞踊が、独裁者ポルポトには気に入らなかったようで、数多くのダンサーが虐殺され、絶滅の危機に瀕したそうだ。そんな悲し い過去を感じさせることなく、黄、緑、赤の色とりどりの衣装をまとった5人の女性は、踊りが終わると、舞台の上でにこやかにあいさつした。
 明日は、朝日に輝くアンコールワットを見るため、早起きしなければならなかった。

ついにやって来た!
アンコールワット

 そうこうするうちに、 飛行機は無事に着陸した。窓からのぞくと、空港の建物は、とてもこぢんまりとしていて、沖縄の離島の空港を思い起こさせた。タラップを降りて、歩いて到着 ゲートまでむかうあたり、まさにローカル空港のおもむきだ。

いよいよ「e-visa」が威力を発揮

  ゲートを入ると、ほとんどの乗客がいっせいにビザの申請窓口に殺到した。私たちは、すでに「e-visa」を持っていたので、ガラガラの入国カウンターに 直行した。おそるおそる係官にビザと入国カードをはさんだパスポートを手渡す。こちらが、覚えたばかりのクメール語であいさつしても、男性の係官は、言葉 を返すわけでもなく、書類を点検しながら、カウンターの上に取り付けられたカメラらしきものを動かした。入国時に顔写真を撮影されるとガイ ドブックに出ていたことを思い出し、レンズに顔を向けた。

ビザ申請の書類  パスポートを返され、私が、「オークン(ありがとう)」と言っても、やはり係官は口を開くことなく、早く行けというような顔をしただけだった。こうして、 あっけなく入国審査を終わった。後ろを見ると、ビザ申請の人たちは窓口でまだ長い列をつくっていた。
  スーツケースを受け取り、空港を出ると男性が私たちの名札をもって立っていた。サボットさんという現地ガイドだった。おたがいにあいさつし、ノイさんとい うドライバーの運転でホテルまでむかう。この2人が2日間、私たちをお世話してくれる。

美しいホテルの庭園  夜の8時を過ぎていて、あたりは、まっ暗だった。このあたりは電気が来ておらず、自家発電やバッテリーでまかなっているそうだ。カンボジアの首 都プノンペンから北西に300キロ離れたシェムリアップには約80万人が住んでいるが、ホーチミンの華やかさはなく、ネオンサインどころか家の灯りも見え ず、ところどころに街灯はあっても光は弱く、暗くて寂しい道がつづいていた。

庭園の池にうかぶハスの花  ホーチミンより北にあっても、熱帯気候であることには変わりなく、むっとした暑さだった。昼間は40度近くになるとサボットさんは言った。約20分ほど で、今夜から2泊する予定のソフィテル・ロイヤル・アンコールに到着した。ホテルでは、「JOH」と名札のついた男性の日本人スタッフから、ホテルの施設 などを一通り説明をうけ、部屋まで案内された。

  ロビーやレストランなどのメインの施設と客室棟とは分けられており、客室には、ホテルの中央にある池に架けられた渡り廊下を通って入るようになっている。 まさに南国のムードに 溢れていた。まっ暗な池からは、カエルの鳴き声がして、少しびっくりした。
  広い客室に入ると、ウエルカムフルーツが置いてあるなど、さすがリゾートホテルとあって、客への心配りはぬかりない。一息つくと、ホテルのレストランをの ぞいてみることにした。

渇いたのどにうまかったアンコール・ビール  渡り廊下でつながったレストランで、現地の女性らしいウエイトレスにピザなど軽食はできないか聞くと、日本語のメニューを持ってきて、パスタならできると いう。お腹にたま るものなら何でも良かったので、メニューの一番上にある料理をたのんだ。飲み物は、私は「アンコール・ビール」という地元の缶ビールを、妻は、缶に入った ソフトドリンクを注文した。
  夕食時には、カンボジアの民族舞踊を見せるディナーショーがあるとJOHさんに聞いていた。ショーも終了し、すでに9時をまわっていたが、レストランには まだ何組かの客がいた。その人たちも部屋に帰り、私たちも、パスタを食べ終えると、ひっそりとしてしまったレストランから引き上げた。

  移動の疲れで深く眠っていたところを、鳥の鳴き声に起こされた。カーテンを開けて、バルコニーに出てみると、ホテルに植えられた木々の間を鳥が飛び交って いた。6時30分にレストランに行くと、すでにたくさんの客たちが食事をしていた。私たちのような日本人とともに、東洋人、欧米人など客の人種は雑多だ。

1000を超す歴史的建造物を持つアンコール遺跡に入場

民族楽器をひく女性  食事は、バイキングになっていて、洋食とともに現地の料理や、中国の麺やチャーハンなどもあった。コックがその場でオムレツを焼いてくれるコーナーには、 何人かが列をつくっていた。その他、サラダやフルーツ、ヨーグルトなどがあり、パンの種類も豊富だった。私たちは、山盛りの料理を皿にとり、世界各国の言 葉が行き交う中で、ゆっくりとリゾートの朝食を楽しんだ。
  今日の出発は、9時半になっている。時間はたっぷりあったので、ホテルの中を散策してみることにした。レストランを出て、客室とは反対方向の渡り廊下を行 くと、広いプールがあった。まだ8時前というのに、欧米人の太った中年の女性が水着になって、プールサイドのデッキチェアに横になっていた。今日は、一 日、日光浴を楽しむのだろうか。

  ロビーを通って、表玄関から外に出ると、道路の向かい側にバイクタクシーの運転手たちが待ち受けていて、みんな大声で乗らないかと誘った。「トクトクタク シー」と呼ばれるバイクタクシーを、1日チャーターして遺跡巡りを楽しむ方法もあるそうで、私たちも、観光中、数え切れないほどのバイクタクシーを見かけ た。
  外に出てぶらぶら歩いてみようとも思っていたが、運転手たちの勧誘のあまりの激しさに恐れをなし、早々と引き上げてきた。

  出発の時間になり、ロビーに行くと、すでにサボットさんが来ていた。左の肩のところにマークが着いたベージュ色のシャツを着ていた。アンコール遺跡の中で は、同じような服装の人に何人も会ったから、これが、現地のガイドたちの制服になっているのだろ う。

行列にならぶ人々 車に乗り、まずはアンコール遺跡群への入場券売り場へと向かう。ホテルを出ると、近くの公立病院には、門の外まで病気の子どもを連れた母親たちが診察の順 番を待っていた。無料で見てもらえる病院は、シェムリアップにはたったひとつしかないらしい。

  遺跡観光は、有料となっていて、入場券があれば、すべての遺跡を見て回ることができる。ここには、1,000を超える遺跡があるという。アンコールワット は、その広大な遺跡群の一部分にしか過ぎないのだ。

3日間のフリーパス 入場料金は、1日券が20USドル、3日券が40ドル、一週間なら60ドル取られる。私たちは、2日だけだったが、一度買えば2日間フリーパスとなる3日 券を買った。サボットさんに教えられたとおり、窓口にあるデジタルカメラに顔をむけて写真を撮り、ほどなくすると、顔写真入りの入場カードが完成する。こ のカードは、遺跡巡りに必須であり、各遺跡の入口に係の人がいて、かならずカードの提示を求められた。失礼だがアバウトな国と思っていきや、どんな小さな 遺跡でも係員にまじまじとカードを点検されたのは意外だった。

地図で説明するサボットさん  朝5時から夜の7時まで開いている遺跡群に通ずるゲートでも、毎日、カードを提示しなければならないが、こちらは、車のウインドウ越しにちらっと見せれば 通らせてくれる。
  ゲート通過後、車に乗っていよいよ最初の遺跡であるバンテアイ・スレイへとむかう。アンコール遺跡群では、入口から最も奥の方にあり、車で行っても50分 もかかると聞き、遺跡群の広さを実感した。途中、いくつかの遺跡の前を通ったが、すでにたくさんの観光客が来ていて、急な石段を遺跡の頂上まで登っている 姿が見えた。

遺跡と大樹がからみあう不思議なタ・プロームの遺跡

 車は、観光客が乗ったバイクタクシーを追い越し ながら、畑や民家の間を走っていった。高床式の民家は、遺跡が世界遺産になる前から住んでいる人たちのもので、今は、居住は許されてはいても、家を新築す ることは禁止されているそうだ。地元の人たちには、ここは生活の場であり、遺跡群の中には学校もある。

  ところどころ、日用雑貨食品を売る店や、屋台のような食べ物屋が集まったところがあったが、これらは、地元住民のマーケットのようだ。マーケットには、も ちろん土産物も置いてあった。
遺跡 道路は、アスファルトで舗装されていて、狭い道を大きなトラックがすれ違い、バイクや自転車なども走っていた。ほとんどが、通勤、通学の人たちだそうで、 地元の人たちには、大事な生活道路なのだ。
  車は、9時半にバンテアイ・スレイに着いた。じりじりと照りつける熱帯の日差しに恐れをなし、妻は、車をおりるなり、みやげ物屋でつばの広い麦わら帽子を 買った。

バンテアイ・スレイの遺跡 バンテアイ・スレイとは、「女の砦」という意味だそうで、900年代につくられたヒンズー教の寺だ。名前のとおり、遺跡の中心には、「東洋のモナリザ」と 呼ばれてきた女性の彫像があるのだが、世界 遺産に指定されてからは、中心部への立ち入りが禁止され、今は「モナリザ」の顔を拝見することはできない。

 バンテアイ・スレイは、遺跡群のなかでも彫刻が最も美しいとされており、入口の門には、ゾウや神様の精緻な彫刻が施されていた。また、「モナリザ」が入っ ている部屋の壁には、両脇に女性の像が彫ってあり、とても優美な感じだった。観光客も多く、パンフレット売りがうるさいほどしつこくまつわりついてきた。  

朽ち果てた遺跡 ふたたびノイさんの運転する車に乗って、タ・プロームの遺跡にむかった。12世紀中ごろに建設された寺院で、遺跡の中では比較的新しいのだが、いたるとこ ろで建物が崩壊している。現在、ドイツのチームが修復をすすめているそうだが、いったい何年かかるか想像がつかない。

巨大な根っこ  崩れた石垣や塀の間に巨大な樹木が根を張り、 遺跡と絡み合って不思議な雰囲気をつくっていた。アンジェリーナ・ジョリー主演の「ツーム・レーダー」は、ここでロケーションがおこなわれたそうで、アン ジェリーナは、その際に出会ったカンボジアの子どもを養子にもらいうけ、夫のブラット・ピットといっしょに面倒をみている。

タプロームの遺跡 遺跡に絡む巨木の根本には、「spung」と記された立て札があり、現地で「スッポン」という意味らしい。たしかに、スッポンのように遺跡に噛みついてい る。これらの樹木も遺跡の一部であり、当然、保護の対象だが、心ない観光客たちが木に名前を彫りつけていた。その中に漢字を見つけたが、「柳高」という名 前は中国人らしく、日本人の仕業でなかったことに胸をなで下ろした。

遺跡 タ・プロームの遺跡を出たところで、10人ほどの男性が、カンボジ アの民族楽器を演奏していた。その脇に、英語や日本語で「地雷の安全撤去を求める」というようなことがかかれた看板が立てられていた。サボットさんは、地 雷で手足を失った人たちが、地雷撤去のための寄付活動をしているのだと説明してくれた。よく見ると、外された義足を脇に置いて演奏している男性もいた。

カンボジア料理 移動に時間を費やしたこともあり、午前中の遺跡観光は2か所だけで終わり、12時近くになって昼食のレストランに入った。地元料理の店で、2種類のカレー が出てきて、ご飯と一緒に食べると、とても美味しかった。
  食べていると、20人くらいの日本人の団体がどやどやと入ってきた。日本では、明日からゴールデンウィークに入ることもあり、日本人の数がぐっと増えたよ うにも思えた。

カンボジア料理 食事が済むとホテルに引き返し、13時から15時は休憩タイムとなる。カンボジアの人たちは、この時間帯は昼寝をするのが習慣だそうで、観光客も、その ペースに合わせるのだ。
  私たちの泊まっているソフィテル・ロイヤル・アンコールのすぐ前に、日本人女性が経営する「アンコールクッキー」の店があった。ちょうど日本を出発する1 週間前の新聞で、経営者である小島幸子さんを紹介する記事を目にしたので、クッキーをアンコールワット土産にしようと思っていた。

ベトナム戦争を忘れてはならない

 ベトナムに来てから3日目、今日は4月27日になる。この日は、11時から市内観光にでかける予定となって いた。出発時刻が遅いの は、夕方のシェムリアップへのフライトの時間に合わせるためであったが、時間 がもったいないので、11時までにホーチミン美術博物館まで行ってくることにした。タクシーを使えば、ホテルからは5分もかからない距離だ。

戦争の悲惨さに触れることができたホーチミン美術館

 ホーチミン美術博物館は、3階建 ての古い建物で、各 階には絵画や彫刻、メコンデルタから出土された古代の土器などが飾られていた。その日は、1階にベトナム戦争当時の諸外国の反戦ポスターの数々が展示され ていた。4月25日から1か月の特別展示だそうで、恥ずかしい話だが、もらったパンフレットを見て4月30日がベトナム戦争の終戦記念日だということをは じめて知ったのだった。

  ベトナム戦争が泥沼化していった当時、オーストラリア、ロシア、スウェーデン、フランス、そして、戦争の当事国アメリカの画家たちが、悲惨な戦争の中止を 人々に訴えたポスターが、所狭しと壁に掲げられていた。
  常設の絵画も、ベトナム戦争を扱ったものが多く、銃を持った兵士や、勇ましい兵隊たちを歓迎する村人たちの姿が描かれたものなど、さまざまな方法で戦争の 記録を残していた。若くして戦争で命を落とした画家の戦地でのスケッチなどは、かつてたずねたことのある長野の「無言館」を思い起こした。

  まだ早い時間だったが、美術館には、多くの欧米人も訪れており、興味深くポスターや絵画をながめていたのが印象的だった。だれもが、戦争を二度と繰り返し てはいけないという気持ちを強くしたに違いない。
  やはりベトナムに来た以上、戦争を少しでも知って帰るべきだと思っていた。その意味で、寸暇を惜しんでホーチミン美術博物館まででかけ、ベトナム戦争の悲 惨さに触れることができて良かった。

  11時からの市内観光は、シクロの体験乗車から始まった。シクロとは、 自転車の前に人を乗せて走る人力タクシーのことだが、現在は、観光用になっていて地元の人は乗らないらしい。1台に1人ずつが乗車し、15分ほど近くをめ ぐる。その間、後ろの運転手が片言の日本語でいろいろと説明してくれる。降り際に、チップ、チップとうるさくせっつかされたが、ホワンさんからは、チップ は必要ないと聞いていたので、サンキューと一言だけ言って図々しく降りた。ただ、ホワンさんが運転手たちにいくら払ったのか、正式の乗車賃は不明である。

  その後、ベンタイン市場を訪ねる。約1万㎡の敷地に2千をこえる店 がひしめいている。衣食住、ここにくれば何でもそろう市内最大のマーケットだ。日曜日とあって、人々でごった返していた。畳にすれば3畳ほどもない狭い店 なのに、どの店も2、3人の店員がいて、仕事もせず、おたがいにおしゃべりしたり、ケータイを見たり、店先に堂々と座って食事をしたりしていていた。店員 の女性たちは、近寄っていくと「おにいさん」と日本語で話しかけてくる。

  品数と店舗が多いだけに、何を買えばいいのか迷ってしまうが、妻は土産物をいくつか買い求めて市場を出た。すでに12時をとっくに過ぎており、昼食のレス トランにむかう。
  「NAM・AN」というラストランでは、日本の焼き鳥そっくりの串焼きの豚、ベトナム風のお好み焼き、チャーハンなどが出てくる。「ぜんざい」と言って出 てきたデザートは、確かに甘いが小豆の味とは似ても似つかないものだった。最後に、ベトナムコーヒーをいただく。カップの底に練乳がたまっていて、かき混 ぜるとあまーいミルクコーヒーになった。

ベトナム戦争の歴史を子どもたちに語り継ぐ統一会堂

  午後からは、まず統一会堂を訪ねる。旧南ベト ナム傀儡政権の大統領府だ。建物自体は、フランスの植民地時代につくられた歴史あるもので、国の建築文化財に認定されている。1975年4月30日、サイ ゴン陥落によってベトナム戦争が終わった。その日、統一会堂に「無血入場」を果たした解放軍の戦車が、ひっそりと中庭に飾られていた。統一会堂は、ベトナ ム戦争終結を象徴する 場所でもある。いまは観光名所となっていて、入口には何台もの大型バスが停まっていた。

  かつての南ベトナム政府の中枢は、いたるところに漆による装飾が施されるなど、贅が尽くされていた。各国の来賓をもてなしたきらびやかな応接室などととも に、麻雀台が据えられた娯楽室、100人は入りそうな映画館まであった。
  しかし、その一方、地下防空壕にはベトナム戦争当時の作戦会議室や、無線 室、ラジオ放送室まであり、非常事態に備えられていた。人がようやくすれ違えるほどの地下の狭い廊下は、たくさんの観光客が肩をぶつけ合うようにして行き 来していた。

  あさってが終戦記念日とあってか、地元の小学校の子どもたちが、団体で統一会堂を訪れていた。学校の社会見学かもしれない。先生が、一生懸命に説明してい る。ベトナム戦争終結から、すでに30年以上が経ち、戦争を知らない世代も増えている。アメリカによって平和な生活を奪われたベトナム戦争の悲惨さを、子 どもたちに語り継いでいきたいというのが、この国の人たちの共通した想いなのかもしれない。

 ホワンさんは、この統一会堂も、かつてフランスに占領され、その後、アメリカに占領されてきたが、今はベトナムは独立して、こうして多く の外国人をむかえていると誇らしく語った。私はなにげなく「日本は、いまでもすべてをアメリカに占領されているよ」と言ったが、ホワンさんには理解できな かったかもしれない。

  統一会堂から、ホーチミンの中央郵便局に移動する。郵便局の隣には、聖母マリア教会がある。19世紀末に建てられたカトリックの教会は、外見はパリのノー トルダム寺院に似ている。東洋のパリ、ホーチミンを代表する建物だ。こ の日は、日曜日のミサが開かれており、残念ながら中に入ることはできなかった。
  郵便局の内部は吹き抜けの高いアーチ型の天井で、フレンチ・コロニアル様式と言われるそうだ。正面には、ホーチミンの大きな肖像画がかけてある。ここも、 大型バスで乗り付けた観光客でにぎわっていた。気のせいか、今日は、欧米人の団体が目立つ。

ベトナム「ZAKKA」は、もう「KEKKO(結構)」

 その後、フライトまではまだ時間があるとい うので、旅行社契約の免税店で休憩する。もとより何も買う気はないが、女性の店員がやたらとまとわりつき、しつこく声をかけてくるのにはいたく閉口した。 店を出て、さらに、ベトナム国内での最後のショッピングのため、「国営デパート」に入る。デパートとは言っても、内部は、小さなみやげ物屋の集合体と、日 用雑貨や食料品を売るスーパーマーケットとが同居しているようなところだ。ただ、1階にブランドの化粧品売り場があるのは、日本のデパートと変わらない。

 しかし、わずか2日間でも、あちこちの店を見て回ってきたが、どこに行っても、同じようなサンダルや置物などのいわゆる「アジア雑貨」が山のように売ら れ、看板にも「ZAKKA」と書かれている。その「ZAKKA」を喜んで買い求める日本人女性にとっては、ベトナムはたまらない魅力があるのだろうが、わ れらおっさんには無縁だ。第一、ドンコイ通りであろうが、ベンダイン市場であろうが、はたまた、「国営デパート」であろうが、売っている雑貨は、私には まったく同じものに見えるのである。

 日本人が買い物好きだからこんなツアーコースになっているのはしかたない が、もう少しベトナムという国を深く知る機会が欲しかった。それでなければ、戦争の悲劇を子どもたちに伝えようと努力しているベトナムの人たちに申し訳な いではないか。
  市内観光を終え、私たちは、タン・ソン・ニャット国際空港へむかった。空港ロビーの入口でガイドのホワンさんにお礼をのべ、別れのあいさつを交わして中に 入った。ガイドの空港入場は禁止されている。
  チェックイン、出国の手続きなどはことのほかすんなりとすすんだ。ベトナム航空の18時35分発シェムリアップ行き飛行機の出発には、まだかなり時間が あったので、待合室でひたすらに出発を待った。

  そろそろ搭乗時間となったころ、突然、飛行機を待つ他の人たちがいっせいに移動をはじめた。私たちには何のことかわからず、とまどっていたら、乗客の中の 一人の外国人の女性が、たったいま、出発ゲート変更のアナウンスがあったことを教えてくれた。
  その女性とは、到着地のシェムリアップ空港の荷物受け取り所で顔を合わせ、スーツケースがでてくるまでの短い会話で、彼女がオーストラリアから来ているこ とを知った。シェムリアップに1週間ほど滞在し、アンコールワット見て回るそうだ。私たちが2日ほどで日本に帰ると伝えたら、「too short」といって気の毒そうな顔をしていた。

  シェムリアップ空港までのベトナム航空の飛行機は、3人掛けの席が 両側にならぶ中型の飛行機だったが、中国人の10人ほどの団体と欧米人が何人かいたくらいで、座席は半分ほども埋まっていなかった。離陸してシートベルト のサインが消えると、男女の乗務員がハンバーガーと水、お菓子が詰められたボックスを、各座席に放り投げるようにして大急ぎで配って歩いた。シェムリアッ プまでの所要時間は1時間ほどなので、ゆっくりと機内食のサービスをしている余裕はないのだろう。
 わたしたちも、うとうとする暇もなく、シェムリアップ空港の灯りが見えてきた。いよいよカンボジア入国である。 

メコンの大河に身をまかせて

ハンドルの前の荷台 ワゴン車が郊外に出ると、ようやくバイクの波から開放され た。道路ぎわでは、いろいろな品物を並べて商売し ており、とくに、フランス パンを売っている屋台が目立った。かつてフランスの植民地だった名残で、ベトナムではフランスパンを食べる習慣があるようだ。

  「CAFE」と看板がかかっていた店が何軒かあったが、開け放しの店のなかには、椅子やテーブルとともにハンモックがかけてあるのが見えた。長い昼休みに は、喫茶店に来て昼寝でもするのだろうか。
  出発から約1時間半ほどでミトーの 市内に入った。メコン川クルーズの出発点だ。車を降りる頃、ぱらぱらと雨が降り出した。

姉妹ではありません  はじめに、エンジンのついた20人ほど乗れるボートでタイソン島までむかう。同乗した女性がその場でココナッツに穴を開け、それにストローを突っ込んだだ けの天然ジュースを一人一人に配っていった。飲んでみると、生ぬるいこ ともあって味はいまいちだったが、熱帯のムードを味わうことができる。 

手こぎボートで「メコン川クルーズ」

ココナッツジュースおいしかった  メコン川を流れる水は、茶色く濁り、あちこちにゴミが浮かんでいた。川幅は2キロもあるそうで、私たちがこれから向かうタイソン島も、正式には島ではなく 中州である。昨年7月、日本政府の全面的な支援で、メコン川に橋を架ける大型プロジェクトの工事中に起きた橋げたの崩落事故は記憶に新しい。ガイドのホワ ンさんも、50名以上の死者、多数の負傷者を出した悲惨な事故のことを船の上で語った。ホワンさんによると、橋の建設を請け負っていた大成建設をはじめと する日本の共同企業体は、命を落としたベトナム人作業員の家族への補償のため、残された子どもたちの大学卒業までの学費を全額支給することを決めたそう だ。 

船上での軽快なガイド  さて、20分ほどでボートはタイソン島に到着し、島内を散策しながら、手こぎボートの船着き場までむかう。途中、ドライフルーツやお茶をタダで出してくれ る休憩所があり、一休みしていると、おばさんたちが片言の日本語をしゃべりながら、袋入りのドライフルーツを次から次へと売りつけに近寄ってきた。せっか くなので、ハスの実に砂糖をまぶしたお菓子が美味しかったので、おみやげに5袋買い求めた。5袋で5ドルだったが、おばさんは、おまけに1袋をサービスし てくれた。

お菓子がいっぱい  ココナッツキャンデーを作っている工場にも案内される。工場と言っても、まさに家内制手工業の世界で、家族らしき4、5人の男女が、ココナッツジュースを 鍋で煮つめたり、それを冷やしたものを固めて包丁で小さく刻んだり、さらに、一つ一つを紙に包んだり、手際よく作業をつづけていた。日本のキャラメルほど の大きさだが、20粒入った1袋が1ドルで、ここでも5袋で1袋のおまけがつく。まだ暖かい出来たてを試食させてもらい、味は悪くはなかったが、すでにハ スの実を持っていたので買わな かった。 

幸せだから手をたたこう  船着き場では、いくつかのグループが順番を待っていて、待ち合わせの時間に、地元の人たちが歌のサービスをしてくれた。三味線のような弦楽 器と、日本の琴を小さくしたような楽器の伴奏で、アオザイをまとった若い女性たちが、きれいな歌声で2曲ほどのベトナムの歌のあと、日本語で「幸せなら手 をたたこう」を歌ってくれた。

軽快なかじさばき  手こぎボートは6人乗りで、前後で2人がオールをこぐので、乗 客の定員は4人となる。私たち7人は、2隻に分かれてボートに乗り込んだ。オールをこぐのはほとんどが女性たちで、巧みにボートを操りながら、ヤシなどが 生い茂る島内の狭い川をすいすいとすすんでいった。途中、客を降ろして引き返してきた何隻もの空のボートと、船の縁をこすりながらすれ違う。

外国人観光客をのせて  熱帯植物の茂みの間からは、島内で生活している人たちの民家がいく つか見えたが、これといった見せ場もなく船はたんたんと川をすすみ、ほどなく景色が開け、メコン川の主流に出てしまった。ゆらゆらと浮かぶ小さなはしけに へばりつくようにして移り、そこに待機していた先ほどのモーターボートに乗せられ、ミトーの船着き場に引き返してきた。1時間半もかけてやってきた「メコ ン川クルーズ」は、あっという間に終わってしまったのだった。

はげしく降りだした雨でバイクも姿を潜める

見かけは悪いが・・・ その後、ミトー市内のレストラン で名物のエレファント フィッシュの唐揚げをいただく。ソフトボールを一回り大きくしたような、中が空洞になっている「揚げ餅」はとても珍しく、どうやって食べるのか手を出しか ねていたら、店の人がハサミで小さく切り分けてくれた。その後、火にかけた鍋が出てきて、これも食べ方がわからずにいたら、鍋の汁を一緒に出てきたチャー ハンにかけて食べるのだと教えてくれた。

中は空っぽでした エレファントフィッシュは、見た目は不気味だが、白身はさっぱ りしていて、香草とライスペーパーで巻いて食べると美味しかった。その他、焼きエビやサトウキビの芯にすり身を巻いたさつま揚げのような料理がでてきて、 なかなか豪華な昼食だった。缶に「333」と書かれた地元のビールを飲み、噴き出す汗をぬぐいながら1時間ほどかけてゆっくりと地元料理を楽しんだ。

ごちそうを食べるのが忙しい  ふたたび車に乗ってホーチミン市内をめざす。しばらくたつと、雨が激しく降り出してきた。ホワンさんは、まだ雨期に入っていないので、すぐにやむと言った が、ザー と降ったかと思えばぴたっとやみ、また激しく降り出すという繰り返しが続いた。バイクの人たちは、ポンチョのような雨具をかぶって走っている人もいたが、 みんなどこかで雨宿りをしているのか、さすがに台数は減っていた。

  居眠りしていると、車はいつの間にかホーチミンの街中まで来ていた。途中、ベトナムの名産品である漆器の工場兼即売の店で降ろされた。旅行社の契約店なの だろう。一通り漆器作りの工程を説明され、日本語を話す店員からしきりと買うようにすすめられたが、どれも高額でとてもその気になる ような品物はなかった。

ドンコイ通りはブランドと偽物が同居する怪しげな街

   時間もあったので、ホテルにほど近いドンコイ通りに美しい花の前で車を停めて、つかの間のショッピングを楽しんだ。ドンコイ通りは、日本で言えば銀座のようなところだと ホワンさんは説明したが、たしかにヨーロッパの高級ブランドの店はいくつか並んでいても、店先の路上では、さっきメコン川クルーズで飲んだココナッツ ジュースを売っていたり、じっと立っていると怪しげなおばさんが偽のルイヴィトンを売りつけたり、さらには、靴磨きのブラシを持ったおじさんがよってきた りで銀座というにはほど遠く、その他にも、物乞いの女 性や海賊版のDVDを売り歩く子どもがいたりで、「銀ブラ」ならぬ「ドンブラ」を楽しめるところではなかった。

ホーチミン市内にそびえる五重塔?  通りに並ぶ店も、一目でわかる偽のロレックスを置いてある店があったりで、最新映画のDVDも海賊版がわずか1ドル40セントで堂々と売られていたのには あきれた。
  ホテルに到着し、しばらく休憩してから、夕食に出かけた。近くのレストランで、郷土音楽を聴きながら、ベトナム料理をいただくことになっている。5人組の 女性とふたたびワゴン車に乗りこんだが、彼女らは、今日の夜の便で日本に帰国することになっており、レストランの前でお別れのあいさつを交わした。

  「おとなしの会」のみなさんは、アンコールワットからハノイを回ってホーチミンに来たそうで、8日間の旅だったそうだ。明日からまた日常の生活に引き戻さ れることを嘆いていた。私たちが、これからアンコールワットまで行くのだと伝えたら、遺跡を回るのは大変だったので、急な階段の上り下りにはくれぐれも気 をつけるようにと助言いただいた。

暑い時の熱い鍋がおいしい うす暗いレストランの中には、3分の1くらいしか席が埋まっておらず、日本人や欧米人が座っていた。出てきた料理は、おなじみの生春巻きと揚げ春巻き、日 本で言う豚の角煮、野菜の炒め物などで、豚の角煮は、ご飯と混ぜて食べるととても美味しかった。その他、魚介類や肉、野菜があふれるほどに入った土鍋が炭 火の小型コンロにかけられ、その汁をラーメンのような細い麺にかけて食べた。それにしても、30度をこえる気候なのに、なぜ昼も夜もアツアツの鍋料理が出 てくるのだろうか。

みごとな演奏でした 食事をしているうちに、前方のステージにアオザイを来た女性が2人登場し、ベトナムの民族楽器を演奏しだした。日本の琴を小さくしたような楽器で、二人と も大きな帽子のようなものをかぶっていた。これも、民族衣装の一つのように見えた。衣装は華やかだが、演奏は、いたって控えめで、ベトナムの音楽を何曲か 聴かせてくれた。

おなじみ生春巻きをぱくつく 最後のデザートは、こちらにきて何度も食べているドラゴンフルーツや、パイナップル、マンゴ、スイカなどトロピカルなフルーツが並ん だ。
  食事が終わる頃、女性たちを空港まで送ってきたホワンさんがやってきた。ワゴン車でホテルまで送ってもらい、部屋に入るとどっと疲れが出て、バタンキュー だった。

いざアンコールワットへ

 ということで、いよいよ計画をたてることになった。しかし、わずかな日数からすれば、とうていヨーロッパ方面にまで足をのばす余裕はなかった。そうなると、目的地はアジアもしくはオセアニアに絞られ、ベトナムはどうかと話がまとまりかけ、ならば、世界遺産のアンコールワットまで足をのばそうということになった。

 さっそく旅行社に6日間のパッケージツアーを申し込み、2人分の料金も払い込んだ。ところが、ここからが大騒動だった。久しぶりにパスポートを取り出して みると、昨年の5月にぷっつりと有効期限が切れていた。それに加えて、アンコールワットのあるカンボジアへの入国にはビザが必要なことが、旅行社のパンフ レットに書かれた小さな文字から判明したのである。

「ビザ」って何?どうやってもらうの?

 ビザが必要な国など行ったことがなかった私たちには、それを取得する手段さえ思い浮かばなかった。妻は、ビザの発給まで2週間くらいはかかるのではないか などと言う。パスポート再発行の1週間をふくめて3週間かかれば、すでにゴールデンウィークは終わってしまうではないか。

 しかし、ここでキャンセルすれば、3割ものキャンセル料をむざむざと取られる。ねばり強くあれこれ調べてみると、インターネットで取得できる「e- visa」という便利な制度があることがわかった。カンボジア政府の「e-visa」のホームページには、日本語の説明も用意されており、さっそくそれに したがって、連絡先のメールアドレス、パスポート番号や入国日、入国場所などをパソコンから入力。デジカメで撮った顔写真を適当な大きさにトリミングして アップロード。最後に申請料をクレジットカードで支払うと、それですべての手続きが終了した。

メールで送られてきたビザ

 受理したというメールがカンボジア政府から数分で届き、なんと、次の日には、顔写真入りのビザがカラー のPDFファイルになって送られてきた。ファイル には、「これを2枚プリントアウトして、1枚を空港で提出し、もう1枚は自分のために持っておけ」とか、「印刷は、白黒でもまったく問題ない」などという 説明が、英語で親切に書かれていた。とにかく、ビザはあっけなく手元に届き、出発10日前にすべての渡航準備は完了した。

 そしてあっという間に出発の日が来た。4月25日の18時5分発のJL759便の成田出発が遅れたこともあり、ホーチミンのタン・ソン・ニャット国際空港への到着は現地時 間で23 時を回っていた。 ホーチミン市は、ベトナム戦争の前はサイゴンと呼ばれた。

 今はベトナム第2の大都市である。タン・ソン・ニャット国際空港は、全世界への航空機が発着する 大空港で、日本でいえば関西空港といったところだ。最新設備を持つ華やかな空港には、かつての戦争の面影はどこにも見あたらない。 ベトナムの通貨は「ドン」で、国内ではどこでもアメリカドルが通用すると聞いてはいたが、空港では、1万円だけドンに 両替した。空港を出ると、いきなりむっとする熱帯の暑さにつつまれた。

ベトナム到着、ホーチミンはバイクの洪水

 驚かされたのは、夜中というのに、たくさんの人たちが出迎えに来ていて、まるでお祭 りのような騒ぎだったことだ。その群衆の間から、私たち夫婦の名前が大きなカタカナで書かれたプレートを見つ け出した。一生懸命に掲げていたのは、現地ガイドのホワンさんだ。腹の飛び出た中年男性で、顔つきはどこか日本人風だ。 駐めてあったワゴン車に乗り、約20分で市内のレジェンドホテルに到着する。途中、道路には多数のバイクが車と同じように道路の真ん中を走っており、ぶ つかるのではないかとハラハラした。

 OLのような服装のごく普通の女性が、ごく普通にバイクに乗り、すいすいと気持ちよさそうに走っている。この時間に通 勤でもなさそうだが、かといって水商売にも見えない。そんな女性は何人もいたし、とにかくバイクの波は、ホテルに着くまで途絶えることはなかった。

 ホワンさんにチェックインの手続きをしてもらい、翌日の予定について簡単な打ち合わせをして別れた。ホテルのロビーはとても広くて、天井も高い。2体の巨 大な馬の銅像が客を出迎えている。日本人の利用者も多いようで、「吉野」という日本料理店まであった。とても広い部屋はエアコンがほどよく効いていた。日本との時差はプラス2時間で、0時前にベットに入ると、睡魔に襲われ、すぐに眠ってしまった。

 翌日は、9時にロビーに集合し、メコン川クルーズに出かけることになっていた。私たちの他に5人のグループが同行すると聞いていた。 朝食は、1階のロビーラウンジでバイキングをいただく。生春巻きなど現地料理にくわえ、和洋とりそろえて数え切れないほどの料理が並べられていた。すし や 納豆、味噌汁まで置いてある。日本料理店のコックがつくるものならば、味は確かだろうが、さすがにベトナムまで来て味噌汁に手を出す気にはなれなかった。

 予定の時間になってロビーに降りていくと、すでに同行する人たちがホワンさんとともに待っていた。5人連れの年配の女性だ。途中の車のなかでの話によれ ば、仲良しの5人組であちこちを旅をしていて、自分たちでは、「おとなしの会」と呼んでいるのだそうだ。「おとなし」とは、「おっと(夫)なし」という意 味で、つまり、一人をのぞいてみんな旦那さんが他界してしまっているという。 「おたくさんたちのように、夫婦で仲良く旅行できてうらやましい」と、私たちを見て言ったが、旦那さんを世話する煩わしさのない人生を楽しんでいるように も見えた。

 ちょうど通勤時間帯にあたる道路は、昨夜の比ではないおびただしい数のバイクであふれていた。ほとんどが、日本で言う「原付バイク」で、半分以上が2人乗 りで、なかには、4人乗り のバイクもいた。ホワンさんの話では、親子のペアは「1人」と数えることを警察が「黙認」するのだそうで、つまり、両親と子ども2人ならば4人乗りができ るのだという。 両腕に赤ちゃんをかかえて、バイクの後ろに乗っているたお母さんの姿を何人も見た。それに加えて、お父さんが膝の上に子どもを乗せて いる。

 日本では想像で きない光景だが、決して本人たちは、危なそうにしていない。 この国では、バイクは万能の乗り物らしく、後ろの座席には人間だけでなく、テレビや冷蔵庫まで乗せて走るそう だ。同行したご婦人らの話では、ハノイでは 生 きた豚を乗せたバイクを見たという。 そんな話で盛り上がっているうち、車はナイル川クルーズ出発点のミトーの街に近づいてきた。

メコンの大河に身をまかせて →