9月8日 アルル~アビニヨン

CIMG5741  9時にホテルを出発する。朝から渋滞する道路を抜けて、高速道路に乗る。車は多かったが、流れは良かった。しかし、ふたたび高速道路を降りると、渋滞に巻き込まれてバスは動かなくなった。1週間のはじまりだけに、交通量が多いのだろう。ようやくバスはアルルの街に到着する。ユキコさんという日本人のガイドを乗せて、アルルの中心地にむかった

■アルルの街で「アルルの女」に出会う

CIMG5753  10時すぎにバスを降りてアルル市街地の散策に出かける。アルルは古代ローマ時代に繁栄した都市で、市内のいたるところに遺跡が残っている。1985年には、「アルルのローマ遺跡とロマネスク様式建造物群」として、ユネスコの世界遺産に指定されている。

 歌劇「アルルの女」の舞台でもあり、観光地としてもにぎわっていて、お年寄りの団体が英語でしゃべっていたので話しかけてみると、カナダから来て、クルーズでパリから回ってきたそうだ。高齢の男性は、フランスははじめてだと語っていた。おそらく、いろいろな国を訪ね歩いているのだろう。

PIC_0158 訪れたアルル市庁舎は17世紀のバロック建築で、現在は博物館になっている。市庁舎のロビー階段には、1651年に古代劇場で発見されたヴィーナス像が飾られていた。ただし、ここにあるのは複製で、本物はルーブル美術館に展示されている。

 市庁舎から歩いていくと、円形闘技場にたどり着く。ローマのコロッセオと同じ形をしていて、ここでも、奴隷と猛獣のたたかいを見せる残酷なショーが催されていたそうだ。アリーナを取り囲むように客席が配置されていて、古代ローマ時代は人々でにぎわったのだろう。ちなみに、アリーナとは「砂場」という意味だそうで、昔は、血ですべらないように闘技場の床に砂をまいていたことから由来するのだとユキコさんが教えてくれた。

CIMG5759  さらに市内を歩き、ゴッホの「夜のカフェテラス」のモデルとなった店を訪れた。絵はオランダのクレラー・ミュラー美術館にあって、まだ見たことはなかったが、黄色い壁がゴッホの絵のままだった。「夜のカフェテラス」は120年も前に描かれたものだが、今も当時と同じように営業をつづけている。

 市内を歩いていると、地元の民族衣装を身につけた女性を何度か見かけた。衣装だけでなく、ヘアスタイルも独特だ。ご当地では、毎年、「アルルの女コンテスト」が催されているそうで、いわゆるミスコンテストなのだが、容姿だけにとどまらず、民族衣装を一人で着られることや、アルルの方言を話せること、さらには、馬に乗れることがコンテスト出場の条件だそうだ。アルルは美人が多いそうで、かのゴッホもそれを聞きつけてここに移り住んだそうだ。

PIC_0184 「アルルの女」は、小説「風車小屋だより」の1つの話を題材にしたもので、パリからやってきたアルゴンという男性が書く手紙の形式で話はすすむ。アルゴンはアルルに住む女性に恋をするが、結婚が破談になって自殺してしまうという物語だ。ビゼーが曲を付けて上演するが、初演はさんざんの評判だったらしい。その後、評判を得たのはビゼーの没後だった。そんなユキコさんの解説を聞きながら、アルル市内を駆け足で一回りした

■本当は橋の下で輪になって踊ったアビニヨン

CIMG5792  バスに乗って、14時すぎにポン・デュ・ガールに着く。紀元前19年頃の古代ローマ時代に建てられた水道橋で、高さ49メートル、長さ275メートル、3層構造になっている。ガール川にかけられた橋で、ポン・デュ・ガールとは「ガール川を渡る橋」という意味だ。

 5万トンの石を使って、5年がかりで建設された水道橋は、1985年にユネスコの世界遺産に指定されている。橋の3段目に水路があるが、もちろん今は水はないので通りCIMG5782抜けできる。ただし、それには予約が必要で、事前に予約していた私たちのグループにはマチルダさんという女性の専属ガイドがついた。

 カギをはずして全員が水路の中に入った後で、最後にマチルダさんがカギをかけた。真っ暗ならせん階段をのぼり切ると最上段に出て、かつて水が通っていた暗い穴の中を歩く。水を通すと1年間に約1ミリの石灰が付着したそうで、メンテナンスが大変だったようだ。

水道橋を渡った証明書
水道橋を渡った証明書

 橋を渡りきったところでらせん階段を下りると、名前の書かれた「通行証明書」が準備されていて、マチルダさんが一人一人に手渡してくれた。ガール川にはカヌーで遊んだり、水泳を楽しむ人が多くいた。暑い日だったので、気持ちよさそうだった。世界遺産とあって、平日にもかかわらずたくさんの人でにぎわっていた。地元の中高生も遠足で来ていた。男子も女子もみんな恐ろしく背が高く、足が長い。

CIMG5798  ポン・デュ・ガールを見学して、16時前にアビニヨンに到着した。1995年にユネスコの世界遺産に指定された城壁都市だ。アビニヨンの人口は8万人で、城壁の中には3万人が住む。城壁の堀には歌で有名なアビニヨンの橋が掛かる。正式名を「サン・ベネゼ橋」と言って、昔は24のアーチに支えられ、900メートルの長さだったが、今はアーチは4つしか残っていない。ダムのなかった時代にローヌ川が氾濫し、橋桁が流されて4つだけ残ったそうだ。

 アビニヨン橋の歌は、「橋の上で輪になって踊ろよ~」という歌詞だが、幅はわずか4メートルほどなので、実際には輪になって踊るのはかなりきゅうくつだ。橋の下が中州になっているので、「橋の下で~」というのが本当の歌詞だそうだ。

CIMG5803  門をくぐって路地を通って法王庁まで行く。道の狭さにもかかわらず、車が入ってくる。観光用の列車も走っている。法王庁宮殿は、14世紀にローマから移ってきた7人の法王が住んでいた。見学は有料で、宮殿のチケットを買うとき、前の客がトラブっていてさんざん待たされる。チケット売り場の壁面にはフレスコ画が書かれている。

 やっと入場できて、新宮殿と旧宮殿に囲まれている中庭に入る。その時々の法王の趣味に合わせて、新宮殿は豪華絢爛な一方、旧宮殿は頑丈でシンプルな造りだ。旧宮殿に入ると、枢機卿会議の間で、かつて政治や司法を議論し、その方向がヨーロッパ全域に影響を与えてきたそうだ。

CIMG5812  隣の部屋は天井が木造で、石の壁に囲まれている。昔はフレスコ画が天井や壁面に描かれていたそうだが、残念ながら消失してしまったらしい。その次は、天井がアーチになっている大宴会場に入る。ここは、次の法王を決める「コンクラーベ」の会場にもなったそうだ。

  宴会場の隣の厨房は3階構造になっていて、一番下は野菜や肉などの貯蔵庫になっていた。厨房には18メートルの高さを持つ排気口があって、ぽっかりとあいた穴から空が見えていた。法王の戴冠式の際にはこの厨房で料CIMG5815理が作られたが、100頭を超す牛など大量の食材が使われたそうで、ごちそうはアビニョンの市民にも振る舞われたそうだ。ちなみに、法王庁の聖職者は、位が高くなるほど肉しか食べなかったらしく、そのため痛風で悩まされていたという。

■せっかくの音と光のショーも意味がわからず

 大宴会場を抜けて木の階段を下りていくと法王の居住区となる。壁のまん中あたりに入口の跡があって、ナポレオンⅠ世の頃に軍事訓練の際の兵舎になっていた名残らしい。次の寝室は壁全体が唐草模様で飾られている。よく見ると、唐草模様の中から鳥やリスが出てくる。かつて法王は、寝室に鳥を放し飼いにしていたそうだ。

 その次の法王の執務室は、別名「鹿の間」と呼ばれている。鹿狩りシーンが壁に描かれていて、かわいそうな鹿は犬に尻を噛みつかれている。鹿だけでなく、鷹狩りやウサギ狩りPIC_0225も絵になっている。絵に描かれたいけすには川カマスが泳いでいる。カトリックは、かつては金曜日に肉を食べてはいけなかったので、肉の代用で川カマスを料理したそうだ。

  次の部屋は石造りの天井で、片隅に人々の彫刻があった。一人だけ女性が離れて寂しく飾られており、彼女は「シーナのカトリーナ」と呼ばれ、法王を説得してローマに帰らせた女性らしい。そのことがアビニョンの市民から反感をかって、ひとりぽっちにされてしまったそうだ。

CIMG5819  最後の大礼拝堂は、ひときわ天井が高く、豪華な祭壇やキリスト像などはなく、シンプルで荘厳な雰囲気がした。大礼拝堂の出口のところに、首をはねられた法王の像がある。フランス革命の時には、聖職者さえも権力の手先と見なされたようで、そのため、市民によって首を落とされたそうだ。

 法王庁宮殿を出て、城壁のなかにあるホテルへとむかう。荷物を整理して、一息ついてから19時すぎに宮殿にほど近いレストランへと出かける。今夜は21時から、宮殿広場で催される「アビニョンのルミネセンス」のショーを鑑賞することになっていて、食事もそれほどゆっくりとはできない。

CIMG5832  ルミネセンスのショーは、宮殿の壁に映像を映し出す流行のプロジェクションマッピングで、方法庁の歴史などを美しいアニメーションで描き出すものだったが、なんせ言葉がさっぱり理解できず、どんなあらすじなのかもわからないままに40分ほどのショーは終わってしまった。法王広場には、どこから来たのかたくさんの人が集まっていた。有料のショーなのだから、せめて日本語で解説したパンフレットくらいは欲しかった。

 ところどころ建物がライトアップされ、すっかり暗くなったアビニョンの街を歩き、ホテルに引き返してきたときは22時半になっていた。ヘトヘトに疲れて、眠りこける。

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