羽田空港には時間に十分な余裕を持って出発した。いつもなら葛西駅からどっと乗ってくる空港バスの乗客は少なく、首都高速もすいていた。

団体旅行客で混雑する羽田空港を出発

仁淀川 ツアーを予約したときは何よりコロナの感染が気がかりだったが、夏が過ぎると新規感染者もぐっと減り、11月10日時点の東京都の新規感染者はわずか25人で、25日間連続で50人を下回っていた。

 まだマスクは欠かせなかったものの、一応はひと安心できる状況ではあり、羽田空港に到着すると、ロビーには団体旅行客の姿が目立った。わたしたちのツアーの集合場所、第1ターミナル南ウイングの時計塔付近にも、色とりどりの旗を持った添乗員の姿が見られた。各旅行社ともコロナ後の観光客の争奪戦に必死になっているようだった。

 8時半の集合時間近くになると、黒いスーツ姿の若い女性が時計塔の前に立ち、太い字でツアー名を記したボードを掲げた。彼女は、今回のツアーでお世話になる旅行社の添乗員さんだった。まだに入社して間もないようで、身につけた服がリクルートスーツのように見えた。

仁淀ブルー ツアーのメンバーは全部で16人で、夫婦連れはわたしたちを含めて2組だけで、他は女性の友だち同士や母娘など、予想していた通り女性が多数を占めていた。何が目的なのか、一人で参加している男性もいた。

 高知空港行きの飛行機は1時間後の出発なので、手荷物検査のゲートをくぐりぬけて待合室に座って待っていた。出発の時間が近づくとさすがに休日とあって人が増えてきた。三密を避けるため椅子は一つおきに×印がつけてあり、座れずに立っている人もいた。やがてフライトの時間となったが、ソーシャルディスタンスを確保するため、後部座席の乗客から先に搭乗をうながすアナウンスがある。コロナは一段落しても、航空会社はまだ過剰なほどにコロナ感染に気を遣っていた。

 高知行きのJAL493便はボーイング737で、通路を隔てて両側が3席ずつとなっている。機内はほぼ満員だった。海外に行ける見通しはまだたたなくとも、何とか国内旅行は楽しめるようになったのだ。

江戸から明治へとつづく安芸市内を歩く

雨竜の滝 飛行機は順調に飛び、途中大きく揺れることもなく、11時すぎに高知龍馬空港に到着する。名前の通り空港の中には、いたるところに坂本龍馬の写真やイラストを描いた広告が見えた。坂本龍馬のゆるキャラまであった。

 空港ビルを出ると、『宮地観光』の大型観光バスが待ち構えていた。バスガイドの女性は、貞吉(さだよし)さんと自己紹介した。めずらしい名字で、全国にたった46人しかいないらしい。運転手は伊藤さんという高倉健似(貞吉さんによる)の男性だ。貞吉さんの話では、コロナで7か月間もガイドの仕事がなかったそうで、待ちわびた団体客に声も弾んでいた。

 バスはまず安芸市内へとむかう。バスの窓から見える景色は田畑と山ばかりで、水の干上がった田んぼには、収穫で刈られた稲が残っていた。その稲の残骸から、ところどころ稲穂が細々とのびていて、稲のたくましい生命力を感じる。温暖な高知では二期作をしていると、もう何十年も前に小学校で習った覚えがあるが、減反を迫られる農政のもとで、とうに二期作などやめてしまっていたのだ。

名物しらす丼 やがて目的地の土居廓中(どいかちゅう)に到着した。まずは、『廓中(かちゅう)ふるさと館』で昼食をいただく。安芸市のご当地グルメ「釜あげちりめん丼」は、大きな皿に盛られたご飯の上に、地元でとれたちりめんじゃこがたっぷりとかかっている。食べごたえはあっても、朝食が早かったこともあり、ぺろりと平らげる。

 昼食後は、土居廓中を散策する。安芸市のホームページによれば、土居廓中とは 「戦国期に築かれた安芸城を中心に、江戸時代、ここに大規模な屋敷を構えた土佐藩家老五藤家により形成された武家町」のことだそうで、2012年に国の「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されている。

 地元ガイドの小松さんの案内で、古びた武家屋敷がならぶ細い道をぞろぞろと歩く。日曜日なのに人の姿もまばらで、あたりはひっそりとしていた。手入れが行き届いた生け垣に挟まれた道は、ちり一つ落ちていなかった。

『叱られて』~はらたいらが描いた女の子

野良時計 しばらく行くと、のどかな田園風景の中に、にょきっと飛び出るように瓦屋根の時計台が見えた。ローマ数字で書かれた文字盤と太く大きな針で、野良仕事をしていても時間を知ることができたことから、地元の人たちはこの時計台を「野良時計」と呼んできた。

 明治の中頃、土居村の大地主の畠中源馬氏は、少年時代に父親から譲られたアメリカ製の時計にいたく興味を持った。源馬少年は何度も分解しては組み立て、すみずみまで仕組みを研究し、そのあげく、大きな文字盤から精密な歯車に至るまで、すべてが手作りの時計を数十年かかって完成させたという。

 残念ながら時計は故障していて、今となっては修理するすべもなく針は止まったままだが、遠くからでも見える堂々とした時計台には、源馬氏の時計への尽きぬ興味と完成までの苦労が忍ばれる。国の登録有形文化財に指定された「野良時計」は、安芸市のシンボルにもなっていて、時計台の絵が描かれたマンホールが、道路のあちこちにあった。

岩崎彌太郎の銅像 土居廓中をあとにして、三菱財閥の創設者、岩崎彌太郎(1835~85)の生家にむかう。彌太郎の曽祖父が建てた旧家が、当時の姿のまま保存されている。土蔵の鬼瓦には、ひし形を縦に3つ重ねた「三階菱紋(さんがいびし)」の岩崎家の家紋が見えた。

 長崎で商売を始めた彌太郎は、海運業で巨万の富を得て「東洋の海上王」と呼ばれるまで昇りつめた。かやぶき屋根の家は、海上王の生家と言うにはあまりにも質素だったが、それとは対象的に、3メートルほどもある彌太郎の堂々とした銅像が、右手を開き腕をまっすぐに伸ばして立っていた。「岩崎彌太郎先生」と台座に記された銅像は、訪れる人々を威圧しているようだった。

 生家の庭には、大小8つほどの石が置かれていて、日本列島をシンボルして彌太郎が少年時代に据え付けたものだ。その頃から彌太郎は、この石組を眺めては日本全土をわが手中におさめることを夢見ていたという。三菱財閥を一代で築き上げ、経済という側面では彌太郎少年の夢はかなったと言える。

叱られて 岩崎彌太郎の生家のすぐ脇に、童謡『春よ来い』の歌詞と楽譜が記された石碑が建っていた。石碑には、ピンク色した大きな桜が描かれている。この歌を作曲したのが、安芸市土居に生まれた弘田龍太郎(1892~1952)で、明治時代に活躍した作曲家は、『鯉のぼり』『靴が鳴る』『雀の学校』『叱られて』などなど、曲名を聞けばすぐに歌がでてくる数々の唱歌の生みの親でもある。

 これらの名曲をモチーフにした石碑が、あちこちに目についた。『叱られて』の石碑には、高知県出身の漫画家はらたいら氏が書いた、叱られてつまらなさそうに石を蹴る女の子の絵が彫られていた。

名画から飛び出した『モネの庭』

モネの庭で 武家の時代から明治へとつづく静かな街並みを離れて、バスは北川村にある『モネの庭』へとむかった。フランスの画家モネは、ジヴェルニーに庭を作り、生涯の半分を庭の中のアトリエで創作活動に励んだ。モネがこよなく愛した庭をそっくりに再現し、村の財政をつぎ込んで観光地として作り上げたのが、北川村『モネの庭』マルモッタンだ。

 車もまばらな駐車場でバスを降りると、添乗員さんからチケットをもらって庭園に入る。緩やかな坂道を上ったところに広い池があり、木々の間から緑色に塗られた太鼓橋が見えた。池には睡蓮が浮かんでいたが、ほとんど花は咲いていなかった。こうした風景は、モネの絵にたびたび登場する。かつてパリのオランジェリー美術館で見た、巨大なモネの睡蓮の絵が印象に残っている。

 池にかかる太鼓橋は、モネの絵で見る緑色の橋そのもので、庭はすみずみまで手入れされている。北川村『モネの庭』は、建設にあたってクロード・モネ財団から指導者を呼び寄せるまでしたと言う。世界では唯一ここだけが正式に「モネの庭」を名乗ることを許されている。

モネの庭で とは言え、これといった見どころもなく、1時間以上もの自由散策の時間は退屈だった。モネの絵が入った品物を販売するギャラリーショップは、エコバッグでも2,000円近くするほど、どれも高価なものばかり売っていて、休憩しようにもカフェは定休日だった。売店だけは開いていたので、妻はゆずソフトクリーム、わたしはアイスコーヒーを買って、寒々としたテラスのベンチに座って時間をつぶした。

 ここで今日の観光は終わり、ふたたび高知空港の方向へ引き返し、いの町にある『かんぽの宿伊野(いの)』にむかう。海沿いの道路を走ると、水平線の上に輝く夕日が美しかった。道路脇のところどころに鉄骨むき出しの建物が建っていて、ガイドの貞吉さんの説明では、南海トラフによる地震が起こったときに津波から逃れるための避難所だという。

 高知県の沖合には南海トラフがあり、100年前後の周期でマグニチュ-ド8を超える巨大地震を引き起こしている。国の地震調査委員会は、今後30年ほどで7~8割、50年では9割の確率で大地震を予測している。この予測と東日本大震災で実際に起った津波の悲劇から、高知県内の自治体は、来たるべき災害への備え着々と整えているのだ。

モネの庭 美しい夕日と別れて、バスは高知市内に入る。市内の道路を走ると、「ごめん」とひらがなで行き先を表示した電車と何度もすれ違う。南国市の後免(ごめん)駅のことなのだが、見るたびに「ごめん」と謝られているようで、こっちまで頭を下げたくなった。市内をノンストップで走り抜け、伊野町にあるかんぽの宿に到着したときは18時を過ぎていて、あたりはすでに真っ暗だった。

 客室は9階にあるツインベッドの洋室で、窓の下に流れる仁淀川が薄明かりを受けて光っていた。夕食が19時だったので、あわただしく夕食会場の2階レストランにむかう。「龍馬プラン」と名づけられた本日のメニューは、高知名物の鰹のたたきと刺身、鮭のちゃんちゃん焼き、牛すき焼き風、甘鯛の天麩羅、米茄子釜とうどん餡かけ、零余子(むかご)の釜飯で満腹になり、地元のお酒ですっかりいい気分になって部屋に戻ってきた。

 夕食後に露天風呂のついた温泉にゆっくりと入る。ほどよいアルコールに加え、早朝に出発し、高知に到着するなりあちこちと歩き回った疲れがどっと出て、ふかふかのベッドに倒れ込むと、すぐに意識がなくなった。

11月15日(月) 中津渓谷から豊楽寺へ  →