祖谷の秘境を訪ねる旅も最終日となった。今日もまた5時に目が覚めた。日が昇ると青空が見えた。テレビの天気予報では、日中は17度くらいに上がるらしい。温泉に来れば、普通なら朝風呂にゆっくりと浸かるところだが、そこまでのはるかな道のりを考えると、とても足が向かなかった。

小便小僧ならぬ「小便少年」が立つ岩

 吉野川すっかり目が覚め、時間を持て余していたところに、間が抜けたようなモーニングコールが入る。朝食会場の本館7階の宴会場に出かけていく。バイキング形式の朝食の品数はなかなか豊富で、和食だけでなくパンやバター、ジャムなども置いてあった。妻はたまにはパンもいいと言って、トーストを食べていた。ヨーグルトや新鮮な牛乳がおいしい。

 8時にホテルを出発する。バスは昨日よりもさらに一回り小さくなっていて、マイクロバスに毛が生えたようなコンパクトさだ。今日はこの車で標高千メートルを超えて奥祖谷にまで足を伸ばし、最後は遊覧船で大歩危を巡って帰途につくことになっている。

 ドライバーは、宮地観光の長江さんに交代する。年輩のいかにもベテランドライバーと言った感じがする。ガイドの貞吉さんは別の仕事があるようで、昨夜のうちに迎えに来た会社の車で高知に帰ってしまった。その代わりに、地元の「よびごと案内人」の四宮康貴さんに今日の道案内をすべてお任せする。

 小便小僧の像四宮さんは、旅館も経営しながら地元の観光ガイドも勤めるという忙しい人だ。コロナでほとんど仕事がないらしく、わたしたちを笑顔で歓迎した。大きな声でしゃべるいかにも陽気なおっさんという感じの人だ。

 小さなバスは、道幅の狭い祖谷街道をぐんぐんと上がっていく。祖谷川が流れる渓谷はすでに晩秋の気配で、紅葉も見頃を過ぎていた。山の空気はさわやかに澄み、ガードレールの下は断崖絶壁で、民家もみあたらない。はるばる奥祖谷に来たことを実感する。しかし、こんなところでも至る所で道路工事をやっていて、旗を持った警備員のおじさんがところどころに立っていた。

 道路脇に『小便小僧の像』の案内板のあるところで停車し、ドライバーの長江さんは、なれたハンドルさばきでバスを路肩に駐車させる。バスを降り、ガードレールから身を乗り出して覗くと、丸裸の少年が巨岩の上で背中を大きく反らせ、可愛らしい一物を指でつまんで突き出していた。

かずら橋 かつてベルギーのブリュッセルで見たご本家の小便小僧は、勢いよくオシッコを飛ばしていた。あちらは小さくて天使のような愛らしさがあったが、祖谷の小便小僧は小学3年生くらいの身長があり、その姿も妙にリアルだった。半世紀ほど前に地元徳島の彫刻家、川崎良行氏によって制作された小便小僧は、祖谷渓の観光名所となっていた。

 四宮さんのガイドを聞いても、なぜこんな場所に小便小僧を作ったのかはっきりしないまま、何枚か違う角度から写真だけ撮ってそそくさとバスに乗り込んだ。観光名所とは言え、コロナ禍では他の観光客もいない。小便小僧を取り囲む山々の景色だけが圧倒的に雄大だった。

標高千メートルを超える秘境へ

二重かずら橋の入口で バスは徐々に高度を上げていく。途中、道路工事の警備員に旗で道をふさがれる。運転手の長江さんが窓から首を出して警備員に話しかけると、10時半まで通行止めなのだと話す。前に進めなければ、迂回路はなく、引き返さなければならない。バスの後ろについていた乗用車は、すでにUターンし始めていた。道を開けてほしいと荒っぽい土佐弁で頼み込んでも一向にらちが明かず、長江さんは工事責任者と直談判すると言ってバスから飛び出していった。

 しばらくして長江さんが帰ってきた。その顔つきが穏やかで、どうやら交渉に成功したらしい。後で聞くと、お客さんを乗せているのに電車の時間に間に合わない、あんたら責任とってくれるんかと、いかつい顔で迫ったらしい。

 何はともあれ一件落着。バスは道路工事の現場の脇をそろそろと通っていった。道路脇にはショベルカーが停まっていて、作業員の姿も何人か見えた。バスが通り過ぎる間、工事も一旦ストップしなければならず、現場の人たちの気持ちも気づかう四宮さんは、バスの中から何度も頭を下げていた。

 10時前に奥祖谷の二重かずら橋に到着する。バスを降りると、「標高1,018メートル」と書かれた看板があった。さすがに千メートルを超えると、空気が一段とひんやりとする。通ってきた国道439号をさらに上がっていくと、四国で2番目に高い剣山へとつながる。この剣山という名前の由来にも、平家の落人伝説がからんでいる。

男橋の上で 1185年の壇ノ浦の戦いで平家が敗れ、わずか3歳で即位した安徳天皇は、平清盛の正室であった祖母の時子(二位の尼)に抱かれて、屋島の海に身を投げた。安徳帝入水の悲しいシーンは、NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』でも描かれている。ところが帝は死んでおらず、平家の落人とともに祖谷に逃げ延びたたという言い伝えがある。

 安徳天皇とともに海に沈んだはずの宝剣は、平家再建を願って山に奉納され、それで剣山という名前がついたのだと言われる。もちろん史実では、安徳帝は壇ノ浦で幼い命を絶っているので、これらはすべて作り話だろう。そんな虚実とりまぜた落人伝説が、祖谷周辺の至る所に残っている。

 話は変わって、剣山には昔、測候所があった。もう40年も前、大阪の気象台に勤めていたころ、毎日、明け方に剣山測候所から無線で気象通報が入ってきていたことを思い出した。標高1,955メートルの西日本で2番目に高い剣山(最高峰は愛媛の石鎚山)にある測候所は、高層気象観測のうえで富士山測候所と並んで世界的にも貴重な山岳観測所だったが、1994年に無人化され、その7年後に廃止されてしまった。

 国道脇にバスを停めて二重かずら橋にむかう。こんな山奥なのにきちんと料金所があり、入場料を払わなければならない。料金所の窓口には、年輩の男性が穏やかそうな顔で座っていた。観光協会から委託を受けた地元の住民らしい。

やはり足がすくんだ「祖谷のかずら橋」

かずら橋 入口を通って坂道を下っていくと道は2つに分かれ、右に行けば男橋(おばし)、左に行けば女橋(めばし)がある。そして、女橋の向こうにはもう一本、「野猿(やえん)」と呼ばれる手動のロープウエーのような小さな駕籠に乗って、祖谷川の渓流を渡ることができる。ただし、残念ながら「野猿」は昨年春に故障してしまい、三密を避けるという理由もあるのか、今のところ修復の見通しはない。こんな山奥にまでコロナの影響がおよんでいる。

 まずは男橋を渡って対岸へ。蔓で作られた橋は、頑丈なワイヤーで十分に補強されているとわかっていても、木の板の間から下を覗くとやはり身体が震える。嘘か誠か、板の隙間から落ちた人もいると聞く。スリル満点の橋の真ん中に立ち、ツアーで同行の女性に頼んで写真を撮ってもらった。

 二重かずら橋は、平家の落人が剣山にある馬場に通うために架設したと聞く。山奥に逃れてきた平家一族は、源氏が攻めてきた際に橋を切り落とせるように、蔓をたばねて吊り橋にしたそうだ。もちろん、これも落人伝説の一つでしかないが、平家の無念に思いを馳せながら橋を渡って対岸に着くと、今度は女橋を渡って戻って来る。

 かかしと阿波おどりしばらく辺りを散策し、バスに乗って国道を引き返す。途中、「名頃(なごろ)かかしの里」に立ち寄る。来るときにバスの中から見た、突然現れるかかしがまるで生きた人間のようでびっくりした。これだけの山奥になると限界集落化は抗いがたく、一人また一人と住民が村から出て行く寂しさを紛らわすため、村人代わりに地元の女性がかかしを作っていったのが始まりらしい。

 今ではかかしの数は300体ほどに増え、名頃の里はにぎやかになったが、逆に言うとそれだけ人口が減ってしまったわけで、服を着て人間の顔をしたかかしに侘しさを感じた。廃校になった小学校の体育館にも、子どもや大人のかかしがいくつも並んでいて、わたしたちを無言で迎えてくれた。

心温まるおもてなしがありがたい

 落合集落バスはさらに下り、「落合集落」の全景が見える場所で一旦停車する。急な山の斜面にジグザグの坂道が作られていて、道に沿って一軒一軒ぽつぽつと民家が並んでいる。一番上の家と下の家との高低差は400メートルもあるという。

 どれもが江戸中期から昭和の初めに建てられた古民家で、国の重要伝統的建造物群の指定を受けて、集落全体が大切に保存されている。当然、それぞれの家屋には住民が生活しているわけで、きつい坂道の上り下りは大変だろう、とくにお年寄りはどうしているのだろうかと、全景が見られる対岸の展望所からながめながら、他人事とは言え心配してしまう。

 昼食は、川沿いに建つ小さな店で家庭料理をいただく。「祖谷自慢そば つづき」「古式そば打ち体験塾 講師 都築麗子」と書かれた入口を通り、階段を下りて中に入る。20人も入れば満席になりそうな店は、座敷の上にテーブルがならび、周りには貯金箱やラジカセ、ぬいぐるみなどが雑然と置いてあった。意外なことに、この山奥の店は世界中に知られているらしく、壁には海外の観光客と撮った写真や、これまでの訪問した人々の出身国をシールで印をつけた世界地図が貼ってあったりした。

都筑さん 料理は、地元でとれた鹿肉の唐揚げやこんにゃくの唐揚げ、野菜の天麩羅などで、もちろん手打ちの祖谷そばもいただく。地元のおばちゃんたちが、配膳のお世話をしてくれる。どれもが素朴で、心のこもった家庭料理そのものだった。

 食事がほぼ終わりかけたころ、店の主人の都築さんが歓迎の言葉をのべ、一曲披露させてもらいましょうと言って、手ぬぐいでほおかむりしたまま民謡を歌い出した。歌は、祖谷に古くから伝わる「そば打ち唄」で、何より都築さんのよく通る美しい声に聞き惚れた。プロの歌手ではないかと思うほどで、都築さんは各地の民謡大会で何度も優勝しているとガイドの四宮さんが言う。食堂の片隅には、数々のトロフィーや盾がさりげなく飾ってあった。素朴な料理と美しい民謡にふれて、心安らぐひとときを過ごす。

旅の最後に遊覧船で渓谷めぐり

琵琶の滝の前で 昼食後は一気に国道を下り、もう一つのかずら橋にむかう。二重かずら橋とは違い、こちらは観光客が大挙してやってくる。大きな土産物店に併設する広い駐車場には、大型バスが何台も停まっていて、修学旅行らしい制服姿の生徒たちがぞくぞくと降りてきていた。

 いまはコロナ禍で観光客も減っているが、通常時ならば年間30万人もの人々がここのかずら橋を渡るという。渡り口には、「国指定重要有形民族文化財 秘境 祖谷の蔓橋」とものものしく記されていた。

 後ろからついてくる人波に急かされるように橋をさっさと渡り、すぐ近くにある「琵琶の滝」の前に立つ。高さ40メートルの岩の間から、白いしぶきをあげて滝が流れ落ちていた。その昔、滝を見て都を忍んだ平家の落人が、ここで静かに琵琶を奏でたという。琵琶の音と重ね合わせて、細く流れ落ちる滝がいかにも侘びしそうに見えるのだった。

 体育館のような巨大な土産物屋でおみやげを物色して、ツアー最後の観光となる大歩危渓谷の遊覧船に乗る。いつもなら遊覧船が忙しく行き来するのだろうが、コロナで遊覧船に乗る客も少ない。それでも、修学旅行の高校生の団体など観光客は徐々に増えているように見えた。

大歩危を行く遊覧船 船着き場を出発すると、船を操る船頭さんがマイクで案内してくれる。船頭さんの独特の口調が妙に間延びしていて、ひと言ひと言ていねいに話す声が耳に残った。切り立った崖の間を川の流れにのってゆったりと揺られると、しばしのんびりした気分になる。岩の上にはカワウらしい黒い鳥が羽を休めていた。

 16時近くに遊覧船を降りると、バスは一路、高知空港へ。平日の夕方とあって、道路の混雑が心配されたが、思いのほか順調に空港に到着した。最後に坂本龍馬と記念写真を撮り、搭乗までは時間があったので、空港のレストランに入って、生ビールを飲みながら鰹のたたきをゆっくりと味わった。出発ゲート近くには売店も並んでいたが、行く先々ですでにみやげは買い込んでいたので、眺めるだけにした。

 コロナ禍の隙間をねらうようにして出かけた旅だったが、素朴な地元の人たちと出会い、仁淀ブルーから祖谷渓、大歩危小歩危と自然にどっぷりと親しんだ3日間に大いに満足できた。宮地観光の運転手さん、ガイドさんはじめ、お世話になった方々には心より感謝申し上げる。観光業もまだまだ大変だけども、がんばってもらえるよう切に願う。

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