1月3日

さんざんな目にあったアイワルクのホテルの一夜

 夜12時に目が覚めた。翌日も出発時間が早いこともあり、ホテルの夕食が終わったあと、すぐに寝てしまったのだが、部屋がとても寒かったので目が覚めたのだ。エアコンの音はするが、暖かい空気がでていない。ベッドを出て、エアコンのコントローラーを確かめに行こうとすると、床一面が水浸しになっていることに気づいてびっくりした。ひょっとして、風呂の蛇口を閉め忘れて、バスタブから水があふれて、部屋まで流れ出てきたのではないかと考えた。

 バスルームに行って確かめると、部屋の床がびしょ濡れであることに反して、風呂の床は乾いていた。暗闇でよくわからなかったが、客室の壁から水が浸み出してきているようにも見えた。客室の絨毯はびっしょりと水を含んでおり、歩くとびしゃびしゃと気持ちの悪い音をたてた。とにかく原因は不明だ。考えられるのは、ホテルの水回りのトラブルだ。いずれにせよ、こちらには責任はなさそうだ。

 目を凝らしてみると、妻のベットの布団にまで水はしみ込んで濡れており、よほど妻を起こそうかとも考えたが、連日の強行軍がつづくなか、疲れて気持ちよさそうな寝息をたてて眠っており、思いとどまった。

■ホテルと日本旅行の不誠実な対応に腹が立つ

 まんじりともせずに夜を過ごし、6時直前まで待って妻を起こして状況を説明し、電話で添乗員と連絡を取った。松田さんは、部屋に入って来たときは、すでに状況を察していた。というのは、隣の客室のドアが開け放たれており、同じように水浸しになっていて、床にはシーツなどが敷かれており、天井でも調べたのか、室内には脚立が立てかけられていたからだった。

 実は、隣室もわがツアーの一行の部屋だったが、同じように部屋が暖かくならず、早々と部屋を変わったのだという。それで、運良く「水害」の災難を逃れることができたのである。それにしても、シーツを敷いて隣室の応急措置をした際、災いがおよぶ可能性が十分にあった私たちの部屋に、ホテル側がなぜ声をかけなかったのか、さらに、エアコンが壊れて隣のツアーの人たちを移動させたとき、添乗員の松田さんは、なぜ私たちにも別の部屋への移動を促さなかったのか、ホテル側、添乗員とも不親切も甚だしいではないか。

 さっそく添乗員の松田さんがホテル側とかけあってクレームをつけ、ホテル側も、申し訳なかったと深く謝っているとのことだったが、謝っただけではおさまりがつかない。さいわい、スーツケースなど荷物が水に濡れることはなかったが、実害がないと言って、謝ったでけで済む問題ではない。このホテルは、客を客として扱っているのかという、怒りがわいてきた。とんだB級ホテルである。

 あまりにもひどいので、松田さんが日本旅行の日本事務所と相談し、1泊分の宿泊費を返金してもらうことになった。ところが、食事代をのぞいた部屋代は、たったの5千円だそうで、松田さんは、申し訳なさそうに50ドルを私に手渡した。日本の旅行会社が、シーズンオフの海外のホテルを、いかに安く買い叩いているのかをかいま見た思いだった。
 とにかく、この騒動で、もう二度とわたしたちが日本旅行を使うことはないだろ。

■いよいよ「トロイの木馬」で有名な遺跡を訪問

 そんな騒動に巻き込まれて、後味の悪いままホテルをチェックアウトする。外に出ると、さいわい雨は上がっていたが、トルコの空は、どんよりと曇っており、またいつ降り出すかわからない不安定な天気だった。
 ホテルの門を出てみると、昨夜到着したときは暗くてわからなかったが、ホテルの前にはエーゲ海がひろがっていて、対岸にはうっすらと明かりが見えた。妻がギリシャはどの方向だろうかと訊ねたが、寝ぼけ眼をこすってエーゲ海の方向を眺めてはみたが、皆目、見当がつかなかった。

 バスは田園風景のなかをひたすらトロイにむけて走っていた。今日は、「トロイの木馬」で世界的に有名な遺跡を見に行くことになっていた。両側には瓦屋根の古い民家や、畑では、オリーブやミカン、イチジク、プラム、ざくろ、桑の実、ネギ、キャベツなどいろんな作物を育てていた。ネギは煮込み料理に使ったりするのは日本と同じだが、なんと、ヨーグルトをつけて生で食べたりもするとニハット氏から聞いてびっくりした。

 トルコは、働いて得た収入の合計と同じだけの年金が出るそうで、退職したサラリーマンたちは、温暖な土地に移り住んで優雅な余生を過ごすのだと聞いた。道路の左にエーゲ海がひろがるこのあたりにも、そうした人たちの住むカラフルな家やマンションがならんでいた。
エーゲ海沿岸は、夏はリゾートになるそうで、子どもたちは3か月半ほどの夏休みが与えられ、先生たちは、その間、リゾートマンションを買って、夏だけ過ごすのだそうだ。だから、寒い今の時期は、ほとんどのマンションが留守になっているらしい。

 11時にトロイに到着する。遺跡の入り口付近に大きな木馬が置かれていた。ギリシャ神話に登場する「トロイの木馬」は伝説上の話であり、ここに飾られているのは、1975年に作られた模造品だ。ここが「トロイの木馬」の話で有名になり、世界から人が集まってくるのだが、実物の木馬がないことにみんながっかりして帰って行くので、観光のためにわざわざトルコ政府が作ったそうだ。

トロイの木馬(模擬象) 木馬には、伝説のように人が入ることができるが、あまりにも巨大すぎて、人間が引っ張って動きそうにはない。しかも、木で作られた木馬は機械的すぎて、まるでロボットのような姿が古代遺跡とは似つかわしくなく、いかにも後から付け足したような印象はぬぐえなかった。

■功罪相半ばするシュリーマンの手柄

 降り出した雨の中を傘をさして遺跡の見学となる。ニハット氏は、かつての街の様子をいろいろ説明してくれるのだが、トロイの遺跡自体はほとんど原型をとどめておらず、修復がすすまないこともあって、古代都市のイメージがわいてこなかった。

 伝説の「トロイの木馬」は、人が入っていたのでなく、城壁を乗り越えるための台として用いたのだという説もあるらしい。城壁を上ってくる敵軍の兵士らにむけて、上からは、熱したオリーブオイルが注がれたという。トロイの町はオリーブオイルを作ってエジプトに売り、その代価として数々の財宝をエジプトから手に入れることができたのだそうだ。そして、その財宝を探し当てるため、ギリシャ神話を信じたドイツ人の資産家シュリーマンが遺跡の発掘に人生のすべてを賭け、その結果、見事トロイの遺跡を発見したのである。

 シュリーマンは巨万の富を得たが、ベルリンにあった財宝は、第2次大戦の敗戦でロシアに没収され、今は、ロシアとドイツの間で係争中なのだそうだ。裁判中という理由で、ロシアは、トロイの財宝を公開していない。ニハット氏は、返してもらわなくともいいが、せめて見せてほしいと、ロシアの非情さを嘆いていた。

 トロイの町は、かつて海に面していたが、やがて海は陸となり、今は、岸から6キロメートルも離れたところにある。オリーブ油で繁栄を極めたトロイは、オリーブをめぐってたびたび戦争が起こり、亡んでいったのである。

 ところで、シュリーマンは、財宝を発掘するためにトロイの遺跡を壊して回ったことで、世界の考古学者からの非難を浴びることとなる。ニハット氏は、それでもシュリーマンは世界初の考古学者であり、考古学という学問ができたおかげで自分もガイドという仕事に着くことができたのだと言って、シュリーマンを褒め称えるのであった。まさに、シュリーマンの業績は、功罪相半ばするといったところか。

 いずれにせよ、トロイの発掘はまだまだ先の長い話であり、世界遺産に指定された今は、ユネスコにすべての管理が任され、これから何年もかけて少しずつ昔のトロイの姿が再現されていくのかもしれない。1月はオフシーズンであり、修復作業は一休みのうえ、他の観光客もまばらで世界的な観光地にしてはすこし寂しかった。

 遺跡を一回りすると、入り口の「トロイの木馬」に戻ってきて、みんながいっせいに木馬の写真を撮り始めた。木馬には、はしご段がついていて、内部に入ることができた。窓まで付いているのは伝説とは違うところだが、そこからひょいと顔を出して、下から写真を撮ってもらった。

歴史上の「トロイの木馬」とは似ても似つかぬものだが、これといって見せ場のない遺跡の中にあって、トルコ観光局がわざわざ作った観光用の木馬は、目論見通りに世界から訪れる観光客には大評判なのであった。

■あこがれのイスタンブールにいよいよ到着

 12時に雨模様のトロイを出発し、フェリー乗り場へとむかう。バスはふたたび田舎道をただひたすらにすすんでいた。山羊や羊を放牧しており、羊飼いの男性が私たちのバスに向かって手を振っていた。

 13時にフェリーに乗り込んで、ダーダネルス海峡を渡る。ラプセキ港を出てガリボリ港までの約30分の短い船の旅だが、ガイドのニハット氏がお茶をおごってくれて、しばし船内でくつろぐ。船には、地元のトルコ人が大勢乗っていて、デッキで代わる代わる写真を撮っていると、年配のおじさんが近づいてきて写真を撮ってくれた。トルコ人はとても親切だ。ついでにおじさんと並んで写真を撮る。

 あっという間に港に着き、降りてすぐに昼食となる。港のレストランでは、サバの焼き魚に塩味のよく効いたライスが出てくる。サバには味がついておらず、塩鯖になれた日本人には頼りなく、そのことを店もわきまえているのか、ここにもキッコーマンの醤油がおいてあった。ライスだけでなく、パンも出てきたので、サバを半分に切ってパンに挟んで食べてみたらうまかった。味噌汁がほしくなってきた。

 ふたたびバスに乗ってイスタンブールにむけて走る。長い道のりの途中、降り続いていた雨は、夕方に近づく頃に雪に変わった。走るにつれ、だんだんと雪は深くなっていき、突然の大雪にタイヤをとられた何台もの車が、路肩につっこんで立ち往生していた。

 道の両側には、夏を過ごすための家が建ち並んでいて、灯りも見えず、廃墟のようだった。すっかり暗くなった道をひたすら走るバスは、イスタンブールに近づきつつあった。ニハット氏が、トルコになじみの曲を集めたテープをかけていた。歌は昔のトルコ民謡あり、トルコ行進曲ありで、やがて、おなじみ庄野真代の「飛んでイスタンブール」が聞こえてくると、ああ、やっとイスタンブールまでたどり着いたのだなとしみじみと思ったりした。

イスタンブール市内にはいると、夜の渋滞が始まっていたが、バスはほぼ定刻に夕食会場となる中華料理の店に到着した。ようやく着いたイスタンブールで、中華料理とは変な話だが、しばし、慣れ親しんだ中華料理に舌鼓を打ち、今夜の宿となるコンラッドホテルにむかった。

 

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