ツアー5日めの朝は、花の都パリでむかえた。 世界に名だたる観光地で、見たいところは星の数ほどあるのだけれど、今回の私たちのパリ滞在時間はたった1日半で、明日の午後にはもうロンドン経由で日本にむかう飛行機に乗らなければならない。ロマンチック街道が中心のツアーなのでしかたないが、初めてのパリをゆっくりと味わっている暇はないのだった。

■パリに着くなり、ダイアナ妃死去の悲しい知らせを聞く

パリの街角で 実は昨夜TGVを降りて、ホテルに行くバスに乗り込んだ時、マイクを持った添乗員さんが急に声のトーンを落として、イギリス王室のダイアナ妃が亡くなったことを伝えた。信じられなかったが、なんと私たちが今着いたばかりのパリで、昨夜、交通事故で死んでしまったのだと言う。

 ダイアナ妃死去の報せはただちに世界中を駆け巡り、日本をふくめて各国メディアはトップニュースで伝えていることだろう。恋人といっしょに亡くなってしまったあまりにも無念な事故にいたるまでの顛末は別にゆずるが、誰もが驚き、そして悲しむべき出来事だった。 もちろんツアーのみんなもびっくりした。私たちにとっても、彼女の死はとても悲しい知らせだった。こんなときにパリを訪れたのも何かのご縁かも知れない。できればツアー中に時間をとって、彼女が無念の死を遂げた場所も立ち寄ってみたいと思った。

■ステンドグラスが美しいノートルダム大聖堂

 ノートルダム寺院のステンドグラス 一夜明けて、悲しみに包まれるパリを、今日は市内観光することになっていた。バスでホテルを出発し、はじめにセーヌ河岸に建つノートルダム大聖堂へとむかった。 ほどなくバスが到着すると、12世紀はじめに建設が着手され、14世紀半ばに全体ができあがった大聖堂は、見事な姿を堂々と見せていた。 世界中に「ノートルダム寺院」が存在しているが、「ノートルダム」とはフランス語で「われらが貴婦人」という意味で、つまりは聖母マリアのことだ。 大聖堂の中に入ると、正面の丸いステンドグラスが美しく輝いていた。

 パリは20数年後、ふたたび途方もない悲しみに包まれる。ノートルダム寺院は、2019年4月の大火災によって、シンボルとなっている尖塔は、燃え上がる炎を力なく見つめる市民の前で、無残に焼け落ちた。フランス国民はもとより世界の人々を悲しませる出来事だったが、あのステンドグラスが今はもう見られないと思うと、本当に残念でたまらない。一日も早い再建を祈るばかりだ。

 一方、パリに散ったダイアナ妃の葬儀は、明日、ロンドンのウエストミンスター寺院でイギリスの国葬として執りおこなわれる。期せずして、私たちも明日はロンドンのヒースロー空港に降り立ち、日本へ行く航空機に乗り換えることとなっている。ロマンチック街道のツアーも、最後は彼女を追いかける旅になってしまった。 さて、パリ市内観光は、ノートルダム大聖堂を出たあと、世界の芸術家たちの憧れの地、モンマルトルの丘を訪れた。

モンマルトルの丘で モンマルトルには、平日でもたくさんの観光客が来ていて、狭い道は人で混雑していたが、観光客を相手にしたおなじみの似顔絵描きが、場所を争うように店を開いていた。 旅の思い出に1枚描いてもらいたいところだったが、とてもそんな時間はない。

 ぐるりと一回りして街角の雰囲気だけを味わい、その後、シャイヨ宮、シャンゼリゼ通り、凱旋門、コンコルド広場とガイドブックにはかならず出てくる名所を息つく暇もなく駆けめぐると午前の観光は終了で、その後は自由時間となる。昼食は各自で食べ、14時前にパリ三越の前で集合することとなった。

■贅を尽くしたベルサイユ宮殿に目を奪われる

あまりの豪華さにポカン 昼食は、三越の入り口にある軽食の店で済ますことにした。サンドウィッチやチキンバスケットなどが置いてあり、ウインドウの前で迷っていたら、店員のフランス人女性から「何にしますか?」と日本語で話しかけられたのでとても助かった。

 午後は、パリ郊外にあるベルサイユ宮殿の見学にむかった。途中、日本人女性のガイドをバスに乗せ、車中でベルサイユ宮殿の歴史などを聞く。 ルイ14世が1682年に建築した絢爛豪華なベルサイユ宮殿は、これも非業の死を遂げたマリー・アントワネットの離宮ともなっていた。 宮殿の中に入ると、どの部屋も贅が尽くされて、いかにルイ14世がこの宮殿づくりに心血を注いだのかが伝わってくる。装飾品の数々ももちろんだが、それぞれの部屋に飾られている絵画の一つ一つが豪華華麗だ。ここには、「ナポレオンの戴冠式」をはじめ世界の名画が展示されている。

ベルサイユ宮殿で パリに住むベテランのガイドさんに案内され、時間をかけてゆっくり説明を聞きながら、宮殿のなかを見学していった。ガイドは的を射ていていて、ときにはユーモアをまじえてわかりやすく、数々のエピソードにもひきつけられた。 見学を終え、パリ市内に帰るバスのなかで、彼女がアポリネール作の「ミラボー橋」の詩を朗々と読み上げたときは、ほんとにこのツアーに参加して良かったと思った。そして日本人のガイドに恵まれたことを感謝したのだった。 パリ市内に戻ってきたのは夕方の5時を過ぎていた。今夜は、オプショナルツアーとしてムーラン・ルージュでショーを楽しむことになっていた。このツアーから参加するのは私たち夫婦だけだった。

■目のやり場にこまったムーラン・ルージュのショー

マリー・アントワネット 市内でバスを降ろされたあと、私たちはホテルには帰らず、どこかで夕食を食べることにした。ムーラン・ルージュにはディナーショーもあるが、私たちが選んだオプショナルツアーは、シャンペンが二人で1本付くだけのディナー抜きのショーだった。

 ショーが終わるのが遅い時間になるので、しっかりと腹ごしらえをしておかなければならない。そうかと言って、本場パリのフランス料理をフルコースでいただく時間はとてもないし、懐具合も気になった。そこで、チープな中華料理で済ますことにした。

パリの街角

 ごちそうばかりいただいてきた胃を休ませることになると都合よく考え、 ガイドさんからは、ラーメンやチャーハンが食べられる大衆料理店を教えてもらった。行ってみると、その店は親子丼やカツ丼などもおいてあり、注文したチャーハンも日本で食べ慣れた味がした。それがかえって美味しくて、しかもフランス料理よりも比べ物にならないほど安い。日本万歳!つつましく、ささやかなディナーに大満足して店を出たのだった。  

 決められた場所で待っていると、時間になると迎えのワゴン車が来た。すでに客が一組乗っており、途中でもう一組拾ってほどなく赤い風車が目印のムーラン・ルージュに到着した。すでにあたりは真っ暗で、店のネオンがまぶしく輝いていた。

やってきました!凱旋門 ドレスコードがあるらしく、乱れた格好では入店を断られる場合もあるとのJTBからの情報もあり、スーツこそ着ていなかったが、私もネクタイを締めていた。同行したのはみんな日本人の観光客のペアだが、みなさんも一応は正装している。

 ところが、ムーラン・ルージュの入り口に並んだ欧米の観光客は、Tシャツやポロシャツのラフな格好が目立った。それでも「帰ってくれ」などと言う店員は一人もいない。どうせそんなことだろうと思った。 案内されて暗い店内に入っていった。3組6人が同じテーブルに座った。席につくと、ウエイターが手際よく数本のシャンペンを運んできた。どこのテーブルも3本ずつシャンペンが配られていた。どうやらこれが今夜の割り当てらしい。速く飲めば、割り当て(3本÷6人)の2分の1本以上を飲めるぞなとセコいことを、ムーラン・ルージュにまで来て考えたりしていた。

在りし日のノートルダム寺院 華やかな音楽で幕を開けたショーは、さまざまな衣装を身につけた何人もの女性の踊り子が、電飾で光り輝くステージをところ狭しと踊ってみせる華やかな出し物が続いたかと思うと、手品師やコメディアン、パントマイムなどの出てくる中休みが何度か繰り返されて、最後はダンサー全員によるフィナーレとなった。 踊り子には、バストをあらわにしたトップレスの女性もいて、大きな裸の胸を客たちに突き出してブルンブルンと誇らしそうに揺さぶるのだった。薄暗い客席で私は食い入るようにダンサーたちを眺めていたが、妻はしきりとあれは整形で大きくしているのだと隣でささやき、そんなにジロジロと見るなと注意するのだった。

■画家ロートレックも「出演」したステージ

やっぱりエッフェル塔 それは置いといて、全員がみんな一流のダンサーらしい見事な踊りを見せてくれた。やはり世界中から観光客が来るだけある。ムーラン・ルージュは歴史もあり、ロートレックが描いた店のポスターは、誰もが一度は目にしたことがあるだろう。 1864年に生まれたロートレックは、名門家で何一つ不自由ない幼少期をおくっていたが、13歳の時に左の大腿骨を、14歳の時に右の大腿骨をそれぞれ骨折したたことが原因で足の発育が停止し、成人した彼の身長は150cmほどだったという。こうした障害が差別を受け、やがて父親からも疎まれるようになる。不遇な中でパリで絵画を学び、ムーラン・ルージュなどの酒場に入り浸り、ダンサーたちをモデルにして絵を描きつづけた。晩年は、アルコールと梅毒に侵されて故郷に帰り、36歳の誕生日を前に両親に看取られて亡くなった。 短い生涯だったが、幸せな一生を過ごせたのではないかと思う。

マキシム・ド・パリ(本店?) 彼の死後、1922年にはアルビにトゥールーズ=ロートレック美術館が設立された。やがて彼の絵はひろく知れ渡り、いまや数々の名画が世界中の美術館に飾られている。こうした彼のパリでの生活を短い演劇にまとめたショーが、ムーラン・ルージュの役者たちによって演じられていた。シャンペンはとっくになくなっていたが、ステージは一段と華やかなにぎわいを見せて幕を閉じ、名残は尽きない店をあとにした。

 ふたたびみんなでワゴン車に乗り込んで帰途についた。 順に客を降ろし、最後は私たちだけが車内に残った。その時、赤い風車が看板となるムーラン・ルージュの全景を写真に収めるのを忘れたのを、ふと思い出したのだった。シャンペンの酔いも手伝って、運転手の男性にもう一度、店の前まで引き返してもらえないかなどと大胆なことを頼んでみたが、やはり、丁重に断られてしまった。 ホテルに着いたのは深夜になっており、パリでの楽しい一夜はあっという間に終わり、部屋にはいるとすぐに寝てしまった。

■サンドウィッチが一番美味しかったフランス料理?

早朝のコンコルド広場で パリ2日めは、すでに日本に帰国する日となった。オルリー空港から出発する英国航空機は15時前の出発だったが、空港までの距離や出国手続きなどの時間を考えて、午前中はまとまっての観光はなく、短い自由時間が設定されていた。 私たちは、寸暇を惜しんで、ホテル近くを散策したり、タクシーで近くの観光地を回ったりして最後の日のパリを楽しんだ。タクシーの運転手が、セーヌ川を沿った道路を走るとき、ここでダイアナ妃が亡くなったのだと教えてくれた。一瞬だったが、彼女の死を悼む花が山のように積み上げてあるのが見えた。そう言えば、今日は王妃の葬儀がロンドンで執り行われることになっている。

これが一番おいしかった! ホテルに戻り、バスでオルリー空港にむかった。昼食を食べていなかったので、空港でフランスパンのサンドウィッチを食べた。これが思いのほか美味しく、最後の「フランス料理」を二人で楽しんだのだった。オルリーから40分ほどのフライトでヒースロー空港についた。

 ヒースロー空港の売店においてある雑誌や新聞は、どれも一様に美しい在りし日のダイアナ妃の写真が並んでいた。 約1時間半後の日本への便を待っている間、テレビにはウエストミンスター寺院の彼女の葬儀が映し出されていた。ここにいると、愛するイギリスの姫を突然に亡くしたこの国の人たちの悲しみが伝わってくるのだった。

ありがとうございました! 最後は悲しい出来事があったが、はじめての二人での海外旅行はあっという間に終わり、たくさんのロマンチックな思い出を作ることができた。これに味をしめて、その後も夫婦であちこちにしばしば出かけていくようになるのだが、その紹介は別の機会に譲ることして、ひとまずこれで幕を閉じたい。(おわり)

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