登別・函館〜道南をめぐる旅(2008.2.29-3.1)

 北海道はいま、7月に開かれる洞爺湖サミットに沸いているそうだ。洞爺湖のある道南地方の様子を見てみたくなった、と言うわけではないが、私たち夫婦は、少しだけお休みをいただいて、この冬、北海道の温泉をめぐる旅に出かけたのだった。


■いきなり北海道のごちそうで満腹になる

 出発は2月29日の札幌。仕事の都合から、私は前日から札幌駅近くのホテルに泊まっていた。そこに、東京の自宅を早朝に発った妻が駆けつけてきた。11時過ぎにJR札幌駅の改札口で無事に落ち合い、13時すぎの特急「北斗」の座席指定をとってから、昼食を食べにタクシーで大通りからほど近い二条市場まで出かけた。
 市場近くで降ろしてもらい、雪道に足を取られながらいろいろ店を探して歩いたあげく、市場の中にある「永森商店」に飛び込んだ。カウンターだけの狭い食堂で、店先ではカニを並べて商売している。他にも、大きくてきれいな店はあったが、市場の雰囲気のある食堂で食べてみたかったのである。


 私がホッケ定食(750円)に三平汁(300円)をつけてもらい、妻は「海鮮どんぶり」(1,500円)を注文する。しばらくして出てきたホッケの開きは、大皿からはみ出すほどのデカさで、その迫力に圧倒されてしまった。あつあつの三平汁には、鮭の切り身がどっさりと入っており、何時間も煮込んだのか、鮭は骨まで柔らかくておいしい。
 妻は、とれとれのウニやマグロ、甘エビがどっさりと盛られた海鮮どんぶりをほおばる。とくに生のウニは、「これが本当のウニの味だったんだ!」と感動することしきりだった。
 食事が終わりかけた頃、ホタルイカの煮付けが盛られた小皿が出てきた。ご飯にのせて食べるとすこぶる美味で、妻は、食べきれずに残していたご飯までホタルイカをおかずにして平らげてしまい、食べ終わるとしきりと苦しがった。
 12時を過ぎ、近くの職場で働くサラリーマン風の人たちで店が混み出した頃、勘定を払って外に出た。新鮮なネタを堪能し、満腹になって、3千円にも満たない。昼食を札幌駅で済まさず、わざわざ二条市場まででかけたのは大正解だった。


 地下鉄でJR札幌駅に引き返し、15分ほど待って「北斗」に乗り込む。同じ車両には、地元のおばちゃんたちの団体がいて、とても楽しそうでにぎやかだった。登別まで2時間ほどのディーゼル列車の旅だったが、窓の外はどこまでも果てしない銀世界がつづき、単調な景色に重なる疲れも加わり、車中ではほとんど居眠りしていた。
この日は天候にめぐまれ、札幌には雪は降っていなかったが、北海道の降雪量は、去年の2倍近くあるそうで、つい2、3日前も、雪と風で飛行機が飛ばず、たくさんの人が新千歳空港にカンヅメになったそうだ。整備された札幌の道路でも、至る所でタイヤがスリップする光景が見られた。スタッドレスでも歯が立たない。おそるべし北海道の雪。

■サミットで米国政府の宿泊先となる登別グランドホテル

 15時過ぎに登別に到着する。駅では、「ケイ太・オス」という札をぶら下げた剥製の熊が、私たちを待っていた。名前がついているところを見ると、どこかの動物園で飼育されていたのだろうか。
 熊の前を通り過ぎて外に出て、すでにドアを開けて停まっていた登別温泉行きのバスに飛び乗り、約15分で温泉街に到着した。途中、バスは「登別伊達時代村」に停まったが、降りたのは一人だけで、「時代村」も雪に埋もれてひっそりと静まりかえっていた。


 今夜の宿となる「登別グランドホテル」は、創業130年の老舗である。昭和天皇は戦前、2度この旅館の最上階にある「貴賓室」に宿泊しており、その思い出を、「わかみどり朝日にはゆる山峡のいで湯の宿にまた来つるかも」という歌にしたというから、かつての天皇も、登別温泉をいたく気に入ったようだ。
 それと、終戦直後には、占領軍が進駐してきて、ホテルが米軍に接収されたそうだ。山峡の旅館の中に、映画館やビアホールまでつくらせたというから、アメリカはすでにその頃から強引で勝手気ままだ。
 しかし、そうしたゆかりもあってか、このたびのサミットでは、登別グランドホテルが、アメリカ政府の宿泊先として指名されることとなった。ブッシュ大統領は、800人の政府・マスコミ関係者をしたがえて来日するそうで、グランドホテルだけでは入りきれず、別の旅館にも分宿すると伝えられている。そんなこともあり、山峡の温泉街も、思わぬサミット景気にわいているらしい。


 ホテルに入ると、正面に7段のひな人形が飾ってあった。広くてきれいなロビーを通り抜け、部屋で一息ついた後、夕食まではまだ時間があり、名所の地獄谷まで行ってみることにした。仲居さんに訊くと、歩いても10分そこらで行けると言い、道順を聞いて二人ででかけてみた。
 教えられたとおり、「極楽商店街」にそって歩いていると、大きな「閻魔様」が出てきた。ここが地獄の一丁目なのか。ほどなく、地獄谷の駐車場に着き、大きな観光バスが何台も停まっていた。それにしても、「極楽」の先に「地獄」があるというのも、変な話ではある。

■ハングルが飛び交う登別温泉の地獄谷

 地獄谷では、いたるところから湯気がのぼっていた。硫黄の臭いが鼻をつき、立ち入り禁止の柵の向こうには、温泉が湧き出しているような穴もある。穴にむけて、雪玉をなげてみたが、そこまで届かなかった。
 谷には、木などはほとんど茂っておらず、地面が暖かいのか、雪は積もらず、むき出しの地面は、噴き出た硫黄がうっすらと黄色く染めていた。
 観光用の順路には、ハングルを話す韓国人らしい老若男女の団体が列をつくって歩いており、記念写真を撮り合っていた。他にも、欧米人のカップルなどもいて、地獄谷の立て札も、日本語と英語で書かれ、中国語、韓国語を添えているものもあちこちで見られた。サミットとは関係なく、登別はすでに国際化していたのである。
私たちは、地獄谷の底のほうに降りていった団体とは離れて、上にのぼっていった。雪に埋もれた小さな展望台が見えると、すぐに道は下りとなり、いつのまにか、もと来た場所に戻っていた。


 宿に引き返す途中、「極楽商店街」で記念の木彫りの熊の小さな置物などを買い求めた。ホテルに着くと、冷えた身体を暖めようと、明治の開業以来の「ローマ風呂」が自慢の大浴場へと急いだ。温泉は、硫黄泉にくわえ、茶色く濁る鉄泉、無色でしょっぱい塩泉の3種類があり、外には、岩風呂とひのきの2つの露天風呂がつくられ、さまざまな温泉をゆっくりと楽しめることができた。
 頼んでおいた夕食の時間になると、仲居さんがやってきた。献立は、新鮮な刺身5点盛り、マイタケの土瓶蒸し、豚鍋、炊きたての釜飯など、これでもかこれでもかというようにごちそうが出てきて、あっという間に満腹になった。ここでも、とれたてのウニにありつくことができた。


 驚いたのは、夕食の途中にホテルの女将が突然、私たちの部屋に訪ねてきたことだった。仲居さんかと思ったら、女性は、
「女将でございます。本日は、ご宿泊いただき、どうもありがとうございます」
と言って、丁寧にお辞儀をしたので、びっくりしてしまった。
 客商売と言えど、数百は部屋数があるこんな大きな旅館を、女将が一部屋一部屋回っているとしたら大変な作業である。老舗の心を忘れない、そのきめ細かさとにしみじみと感心し、温泉とアルコールで芯まで暖かくなった身体に加えて、心も温かくなった。
 食事が終わり、仲居さんが食卓を片付けててしまうと、妻は、お腹がいっぱいで苦しいと言って、敷いてもらったふかふかの布団の上にさっさと横になってしまった。
私も、疲れの上にほどよくビールの酔いが回ってきて、ふたたび大浴場に出かけるのが大儀になり、そのまま眠ってしまったのだった。

■思わずなごむ可愛らしい登別の鬼たち

  翌日も、天気は良かった。昨夜とは男女が入れ替わったローマ風呂大浴場に行く。露天風呂には滝もつくってあり、つららの奥で水が落ちる滝は、なかなかの風情だった。
朝食はバイキング形式で、広い朝食会場は、すでに大勢の宿泊客でにぎわっていた。料理の種類も豊富で、味噌汁も欲しかったが、昨夜、仲居さんにすすめられたホテル自慢の焼きたてのパンにすることとした。雪景色をバックにして、皿の上にたっぷりと盛りつけたさまざまな料理を前に、ゆったりと朝食をいただく。北海道に来ていることを実感する。


 部屋に帰って、11時のチェックアウトまで時間があるので、ごろごろしながらテレビを見ていたとき、ふと外を見ると、横なぐりの雪が降り出していた。北海道の冬の天気は変わりやすいようだ。
チェックアウトの時間が近づき、ロビーに降りていき、支払いを済ますと、入口のひな飾りの前と、外に置かれていた大きな鬼の張りぼての前で記念写真を撮った。赤鬼が登別のシンボルキャラクターになっているようで、いたるところに鬼が置いてあるのだ。鬼が「地獄」を象徴するのだろうか。しかし、登別の鬼たちはみんなユーモラスな顔をしていて、どれ一つとして鬼らしく見えないのが難点だ。
 温泉街のバスターミナルでしばらく待ち、登別駅行きのバスに乗る。温泉街の道路は、いたるところで工事をしており、これも、米国政府をむかえる準備なのかもしれない。しばらくすると駅に着き、駅の待合室では、函館行き、千歳・札幌行きの両方の特急を10人ほどが待っていた。私たちは、12時前に出発する「スーパー北斗」に指定を取っていた。時間が近づくと改札が始まり、年輩の駅員は、ていねいに車両が停まる位置を教えてくれた。ローカル線ならではのこうした心遣いがうれしい。


 室蘭本線と函館本線を経由して函館駅まで行く「スーパー北斗」は、途中、サミットの中心となる洞爺駅にも停車する。さぞかし洞爺湖サミットムード一色かと思えば、「歓迎・洞爺湖サミット」と書かれた小さな垂れ幕が、人気のないホームで寒々とはためていたくらいで、ほかの駅と同じ寂しいローカル線の駅でしかなかく、拍子抜けしてしまった。
 洞爺駅を出たあとも、窓外は、原野の雪景色が延々と続いた。どんよりと曇った空の隙間から青空がのぞいたかと思ったら、突然、吹雪になったりして、北海道の天候は油断できないように見えた。

■はるばる来たぜ函館!ロープウェーで一気に函館山頂上へ

 午後2時近くに函館駅に到着したときも、横殴りの雪にむかえられ、大急ぎでカバンから折りたたみの傘を取り出す。ところが、地元の人たちはだれも傘を差していない。突風で傘の骨が折れそうになりながら、市電に乗り込み、十字街へとむかう。
 昼食は、妻の友人が教えてくれた十字街電停近くの「鳳来軒」という店で、ラーメン屋で食べることに決めていた。ところが、探し当てたその店は、2時を少し過ぎたばかりというのにすでにのれんがはずされ、「準備中」の札がかかっていた。妻が、店の中に入って訊くと、やはり、すでに閉店したらしい。
 いささかがっかりして、海沿いの倉庫街の方向にむかうと、その途中にあった「マメさん」という変な名前のラーメン屋があったので、おそるおそる入ってみた。あとでガイドブックを見ると、この店のラーメンが紹介されていて、函館ではわりと有名な店らしい。たしかに、海産物で出しを取った塩ラーメン(730円)は、こってりと油が浮かんでいたが、食べてみると案外とあっさりしていて美味しく、何よりも、熱々のスープは、冷えた身体を暖めてくれた。


 店を出ると、「金森赤レンガ倉庫街」でおみやげを買い、ハリストス正教会へとむかった。歩道に残る雪に足を取られながら坂道を上り、教会を探す。このあたりは、ほかにも聖ヨハネ教会、元町教会、港ヶ丘教会など教会の密集地でもある。異国情緒たっぷりだったが、キリスト教ばかりか、京都の東本願寺の別院まであった。
 ハリストス正教会は、1859年にロシア領事のゴシケヴィッチが領事館内に建てた聖堂が、その後受け継がれ、教会となったそうで、函館ハリストス正教会は日本の正教会伝道の始まりの場所だと伝えられている。なお、ハリストスとは、ギリシャ語でキリストのことで、東京のお茶の水にあるニコライ堂も、ハリストス正教会の建物だ。
 市内をバスで巡る観光コースに入っているようで、何人かの人たちを相手にガイドが解説をしていたが、訪れる人はまばらで、とても静かな教会のたたずまいを見せていた。観光で訪れたらしい女性の二人組に写真を撮ってもらい、通りに出ると、下に函館の港が見えた。上を見ると、ロープウエーが上っていくその先に函館山の頂上が見えた。
 私たちも、すぐそばにあるロープウエーの駅に向かい、往復のチケット(1,160円)を買って団体客の人たちと一緒にゴンドラに乗り込むと、景色を楽しむ暇もなく3分ほどで窓外の頂上の駅に到着した。途中、おびただしい数のカラスに驚かされる。


 函館山の標高は334メートルで、東京タワーほどしかないが、さすがに頂上は雪の量も多く、展望台の外に出ると吹き付ける風雪で震えるほどに寒く、雪に煙る函館市内の景色をバックにして写真を撮って早々とロープウエーで引き返した。
 その後、坂を下って十字街の電停まで戻る。途中、南部藩の陣屋跡地では、サミットの観光客に備えているのか、崩れかけた石垣の改修工事をおこなっていた。
 電停近くになると、妻の友人に教えられた「宮原かまぼこ店」をさがす。ところが、あたりをさんざん歩き回っても、それらしきものは見つからず、電停そばの交番に入って場所を聞き、ようやく探し当てる。清潔な雰囲気だが、あまり目立たない店で、これでは観光客はなかなか見つけられないだろう。
宮原かまぼこの創業は明治16年。地元産の素材を使った無添加のかまぼこが評判を呼んでいるらしく、看板商品のいか浜焼きは函館みやげとなっているという。私たちは、玉ねぎの入った揚げかまぼこ(210円)を5枚ほど買い求め、教えてくれた友人へのおみやげにする。

■あこがれの部屋付き露天風呂をゆっくりと堪能


 十字街からふたたび市電に乗って、湯の川温泉をめざす。電車は、市内の中心街を突き抜け、五稜郭公園や函館競馬場の前を通り、およそ30分かかって温泉街に到着した。
 市電を降りたときは、すでに夕方の5時近くとなった函館は、吹きつける風は冷たく、本州とは比べものにならない北国の寒さが身にしみて、一秒でも早く暖かい温泉につかりたかった。震える身体で旅館の看板を捜しながら、15分ほど歩いてようやく今夜の宿となる「平成館・しおさい亭」にたどり着いた。本館・別館あわせて400近くの部屋を持つ大きな温泉旅館だ。


 フロントで手続きを済ませ、部屋係の仲居さんに案内されて別館5階の部屋にはいる。カーテンを開けると、窓全面にひろがる津軽海峡に圧倒される。まさに、オーシャンビューである。しかも、この部屋には、ひのき造りの露天風呂がついていて、湯船からは暖かいお湯が24時間あふれ出していて、海を眺めながら一人でのんびりと温泉を楽しむことができるのだ。テレビの旅紹介番組などではよく出てきて、いつかは入りたいと思っていた「マイ露天風呂」が現実になったのである。
 露天風呂はあとの楽しみにとっておき、夕食前に7階の大浴場にむかう。露天風呂こそないが、一人ずつ入れるひのきの湯船が3つほど置いてあって、ゆっくりとお湯に浸れるようになっている。登別のように温泉の種類はなく、舐めるとしょっぱい塩泉だけだ。大浴場の窓の外には、まさに津軽海峡冬景色がどーんとひろがっていた。
 仲居さんが部屋に夕食を運んでくる頃、マッサージに行っていた妻が帰ってきた。約1時間かけて、たっぷりと疲れた身体をもみほぐしてもらってきたそうだ。


 夕食は、お造りや茶碗蒸し、鱒の白酒焼、タラバの酒煮、ふぐ鍋などというごちそうとともに、私は牛肉のミニステーキ、妻はアワビの姿焼きと、豪勢な料理が続いた。せっかくのごちそうなので、函館産のワインを注文することにした。ラベルには、「函館夜景」と書かれている。本物の「100万ドルの夜景」は見られなかったが、ワインで夜景を楽しんだ。
 お世話係の仲居さんは、20歳そこそこに見える若さで、ブティック店員のネタで最近人気が出ているお笑い芸人のようなしゃべり方が、私にはいささか気になったが、とても親切に応対してくれて、気持ちが良かった。
 途中、「凌ぎ」などと称して、お椀に入った暖かいうどんが出てきて、それだけでもお腹は満たされていたが、食べ終わったふぐ鍋にご飯を入れ、ふぐ雑炊をつくっていただく。満腹を通り越して、お腹パンパン。もう何も入る余地はない。
 夕食が終わると、いよいよお楽しみの露天風呂に浸かる。露天風呂からは、遠くに函館山の灯も見えた。身体をひのきの湯船に鎮めると、どばーっとお湯があふれ出した。もったいないような気もしながら、これぞ温泉の醍醐味としみじみと感激しながら、函館の夜は更けていくのであった。

■名残は尽きず、湯の川温泉に別れをつげる

 翌日、起きると、ふたたび露天風呂に入り、しばし幸福感に浸る。朝から雪がちらついていて、外気に頭だけが冷やされ、お湯に入ってものぼせず、いつまでも入っていられるような気がした。
 砂浜をよく見ると、雪が降るなかを人が一人ぽつんと立って、旅館の方をながめていた。釣りをしているわけでもなく、おそらく散歩でもしているのだろうと思っていたら、旅館にむけて手を振りだした。気にはなったが、いつのまにかどこかに行ってしまった。砂浜からは露天風呂が丸見えだが、距離があるので気にならないし、気にしていては露天風呂は楽しめない。


 朝食は、食堂でのバイキングだったが、「花月(はなづき)」と名がつく別館の客は、特別のもてなしをしてくれるらしく、バイキング料理とは別に、焼き魚やいかそうめんなど5品がつく。これだけでも何杯もご飯をいただくことができるくらいのおかずだ。
 それに加えて、バイキングは数え切れないほどの豊富な品数が用意されている。いろいろな料理を取ってきて食べていると、昨夜お世話になった部屋係の彼女が、私たちのテーブルにやってきてあいさつした。
 「いかがでしたか。ゆっくりとおやすみになれましたか?」
 と聞いてきたので、
 「露天風呂が最高だった」
 とうれしそうに応えると、彼女は、ほっとしたのか、あどけなさの残る顔に満面の笑みを見せた。
 夜遅くまで働き、朝はこんなに早くから仕事をしている彼女に、妻は、勤務時間はきちんと守られているのだろうかと心配もしたが、大きな旅館で働くことを誇らしそうにして、とても楽しく仕事をしていたのが印象に残った。


 彼女は、私たちが帰るときも、ホテルの出口で待っていてくれて、記念撮影を頼むと、ホテルの看板をバックにして、二人で並んだ写真を撮ってくれた。 雪がちらつくなかを、コートも羽織らず、制服の着物のすそをタスキでまくり上げて、外で私たちを見送ってくれた。
 お客に喜ばれようと、一生懸命に仕事に打ち込んでいる姿は、とてもすがすがしかった。また今度函館に来ることがあれば、この旅館を使ってみたいと私たち夫婦の意見は一致したのだった。

■高さ90メートルの五稜郭タワーで幕末の歴史を学ぶ

  帰りの飛行機は15時半に出発することになっていたが、函館空港は市内中心地からも近いので、一日たっぷりと函館を楽しむことができる。まずは、おなじみの五稜郭に行く。市電に乗って約10分で五稜郭公園の停留所に着くと、さっそく五稜郭タワーにのぼる。展望台の入場料(840円)を払って、制服を着た女性たちに案内されてエレベータにのると、ほどなく高さ90メートルの展望台2階に到着した。
  ドアが開くと、真っ正面に星形をした五稜郭の全景が見えた。城郭を取り囲む堀の水は、すべて氷っていて、その表面には雪がうっすらと積もり、とても寒そうだった。公園内を歩いている人がアリのように小さく見え、星形のちょうど真ん中には、巨大な温室のような建物が見えた。その建物の内部では、箱館(函館)奉行所の復元工事がおこなわれており、2010年の完成を予定しているとのことだった。


  展望台では、グラフィック展示「五稜郭物語」があり、16景の模型を使った「メモリアルポール」によって、五稜郭の歴史を紹介している。このミニチュア模型がなかなか精巧にできていて、五稜郭に散った幕末の志士、馬にまたがった新撰組副長・土方歳三のフィギアは、実際に毛髪の一本一本が風になびいているように見える。
  「メモリアルポール」を順番に見ていくと、ペリー来航から日米和親条約による箱館の開港、その後の日本の防衛力の強化のための五稜郭建設、旧幕府軍と新政府軍による箱館戦争の勃発、そして、旧幕府軍の全滅という五稜郭をめぐる歴史の流れがだれにでもわかるようになっていた。
  国際港としての箱館港の開港は安政6年(1859年)と言うから、サミットが開かれる150年も前から、函館はすでに世界に目をむけていたのである。


  五稜郭はタワーに上がるだけにして、午前中に閉まってしまう函館朝市に急ぐことにする。妻が、朝市でカニを買って、東京の両親に送ってあげたいと考えていたからだ。
  ふたたび市電に乗って函館駅前で降り、2、3分歩くと「タラバ」「イクラ」などの派手な看板が見えはじめた。そのあたりは、すでに朝市の一郭に入っていた。数年前、近くの「東横イン」に泊まったことがあるので、なんとなく雰囲気は覚えていた。
  朝市は、たくさんの店が商売をしていて、店先には毛ガニやタラバガニが山のように置かれている。水槽に入って泳いでいるカニもいる。通りを歩くと、店員たちが、うるさいほどに声をかけてくる。どの店にしようかとさんざん迷ったが、結局、数名の観光客が人だかりをつくっていた店で足を止め、店員のお兄ちゃんに話して、毛ガニ2匹に開きホッケをサービスさせることで交渉が成立した。クール宅急便の送料を入れて、占めて7千円ほどの買い物となった。

■函館の「茶夢」で、またまたごちそうやー!

  お目当ての買い物も終わり、ほっとして時間を見れば、まだ11時を過ぎたばかりだった。雪がちらつく函館朝市の店先をもう一回りしてみたが、ほかに買い物をする当てもなく、ただひたすら寒いだけだったので、少し時間は早いけど、朝市の一郭にある「どんぶり横町」で昼食をとることにした。
 「どんぶり横町」には、10以上の食堂が味を競い合っていたが、どこの店も、名物の「函館丼」をはじめ、ウニ丼、イクラ丼など同じようなメニューであり、ここでも、どの店に入ろうかと迷ってしまった。時間もあったので、ぶらぶらと奥まで行ってみたが、結局、決断がつかず、一番奥にあった「茶夢(チャム)」という店が、「なんとなく」良さそうに見えたので入ることにした。


 お客も少ない店に不安を持ちながらも、妻は、ウニ、イクラ、カニがのった「函館丼」(1,600円)を、私は、「函館丼」と三平汁のセット(1,500円)を注文した。セットのほうは、どんぶりが少し小振りになるので、どんぶりだけを妻と交換することにした。
 はじめに三平汁が出てくる。札幌で食べたものとは違って、魚は、鮭ではなくタラが入っていた。一口すすると、タラの出汁の効いた熱々のスープが身体にしみこむように美味しかった。
 そこへ、10種類ほどの小皿がいっぺんに出てきて、テーブルがいっぱいになった。注文もしていなかったので、びっくりして訊いたら、店のサービスだと言う。小皿は、漬け物やきんぴら、イカの塩辛などとともに、「イカのゴロ煮」や「カニ味噌」といったこの店の名物も入っていた。それらはどれも美味しくて、私たちがちびりちびりと味わっていたら、突然、奥から大将が顔をのぞかせ、
 「お客さん。ご飯が来るまで、待ってたほうがいいよ」
 と叱られる。意味はわからなかったが、とりあえず箸を止めた。
 ほどなくして、大小のどんぶりが出てくる。この店でも、生ウニの味が格別だった。関東あたりで出てくるウニとは、根本的に味が違うのである。
さらに、妻は、一口食べて、
 「うわー、このイクラ、めちゃくちゃおいしい!」
 と感動して声をあげた。すると、ふたたび大将が顔をのぞかせ、
 「そうだろ。うちのイクラは、ほかの店とはちがうからね」
 と自慢した。
 大将は、ご飯だけ残しておいて、小皿のカニ味噌をかけてみろと言うので、やってみたら、妻は、「おいしー!」と、またまた感激した。それで、大将が、ご飯が来るまで待っていろと私たちに忠告したことが納得できた。


 食べることに一生懸命になっていたので気づかなかったが、いつの間にか狭い店内は満席となり、入口付近には立って順番を待っている人もいた。勘定を済ませて外に出ると、そこにも店内をのぞく人が何人かいた。
 帰りがけに他の店をのぞくと、12時をすぎてもそれほど混んでおらず、どうやら「茶夢」は、どんぶり横町でもっとも人気のある店のようだった。大将からもらった名刺には、支店の「いがわ食堂」がすぐ近所にあることが記されていた。あの味とサービスならば、本店・支店ともに繁盛しているに違いない。函館の昼食も、札幌以上に満足したのであった。

■凍える北海道で人の温かさを知り、東京へ帰る

  さて、フライトまでにはまだまだ時間がある。ガイドブックを開き、「金森美術館」を訪ねてみることにした。ここには、フランスのバカラ社の手による最高級のクリスタルガラスが常時展示されている。明治44年に建てられた旧金森船具店を改築したというこぢんまりとした館内には、パリのバカラ・ミュージアムが所蔵する作品の復刻版約50点が飾られていた。
  復刻版とは言えど、透き通るガラスの美しさに加え、鍛え抜かれた職人たちによる精密な彫刻がほどこされた品物の数々は、どれも息をのむほどの迫力を持っていた。
  館内には、金森船具店をつくった渡邉熊四郎の生い立ちを紹介したコーナーがあり、24歳ではるばる長崎から函館にやってきた熊四郎は、金森洋物店にはじまり、輸入業や船具販売、新聞社設立、さらには、海運業にも手をひろげ、一代で財を築いたそうだ。


  海運業華やかりし時代、海沿いに次々と建設された倉庫群は、輸送形態の変化や北洋漁業縮小などにともない徐々に往年の勢いを失っていったが、今や、ビアホールやレストランに姿を変え、ふたたび、たくさんの若者たちを集めて賑わっている。金森美術館の入場券とともに渡された「ビアホール・サービス券」を手に、私たちも、昨日に引き続き、倉庫街のほうへ足を伸ばした。
  倉庫を改造したビアホールでは、20人ほどのグループが、昼間からのビールで盛り上がっていた。私たちは、おとなしくコーヒーを飲んだ。美術館でもらった「サービス券」は、490円までの飲食物をサービスするというもので、400円のコーヒーがタダになった。金森美術館の入場券が400円なので、めちゃくちゃ得をした気分になった。さすが海運王、太っ腹である。


  海沿いのエリアには、「北島三郎記念館」などもあったが、サブちゃんには申し訳ないが、さすがに興味がわかず、函館駅まで市電で引き返してきて、空港バスに乗り換え、函館空港へとむかった。
  函館空港にはバスで20分ほどだ。バスは市街地から海沿いの国道を走り、湯の川温泉を抜けていった。「しおさい亭」の前を通るとき、ひょっとして、あのお世話になった仲居さんが玄関先に立っているかと思って目を凝らして眺めていたが、チェックイン時間前の旅館には人影もなく、バスはあっという間に過ぎ去ってしまった。
  飛行機は定時に出発し、無事、羽田空港に着陸した。忙しさのなか、仕事を離れて、今回は、まことに贅沢な旅行をさせてもらった。とびきり寒い冬の北海道の旅だったが、温泉三昧のなかで北国でしか味わえないごちそうをたっぷりと堪能できたのは幸運だった。
  そして、何よりも、出会った人たちは、みんな心の温かい人たちばかりで、そのことに、私たちの心も温められたことが、この旅の最高の収穫だったのではないだろうか。(了)

 

フォトギャラリー 

 

登別の名所、地獄谷

 

 

 

 

 

 

 

地獄谷その2

 

 

 

 

 

 

 

 

地獄谷の全景

 

 

 

 

 

 

 

 

赤鬼になったわたし

 

 

 

 

 

 

 

 

ホテルのフロントで

 

 

 

 

 

 

 

 

登別グランドホテル

 

 

 

 

 

 

 

 

登別駅前の鬼

 

 

 

 

 

 

 

 

函館駅で雪が降ってきた

 

 

 

 

 

 

 

 

函館のキリスト教会

 

 

 

 

 

 

 

 

函館山の頂上で

 

 

 

 

 

 

 

 

しおさい亭のごちそう

 

 

 

 

 

 

 

 

夢に見たマイ露天風呂

 

 

 

 

 

 

 

 

五稜郭タワー

 

 

 

 

 

 

 

 

五稜郭をバックに

 

 

 

 

 

 

 

 

みごとな歴史フィギュア

 

 

 

 

 

 

 

 

函館の路面電車